実行が伴わねば

善いことがたくさん書かれているというだけでは、それは何の役にもたたない物です。

善いことが書かれている物をいくらたくさん読んでいるといっても、役には立ちません。

善いことをいくらたくさん頭に入れていても、何にもなりません。

善いことをしっかり、たくさん頭に入れて、それを覚え、それを言葉にして、人前で発していても、何にもなりません。
まして、それで名を得たり、金を得たりしているというだけでは、本物かどうか、否、本物とはいえません。

いくら善い教えであっても、それを実行に移さねば、世の中の役には立たない、と言っています。

善い教えと実行があって、世の中が潤いあるものになるのだ、と言うのです。

そして、それをするのは、それぞれの人なのだと言っているのです。


大道は譬(たとへ)ば水の如し、善く世の中を潤沢して滞らざる物なり、然る尊き大道も、書に筆して書物と為す時は、世の中を潤沢する事なく、世の中の用に立つ事なし、譬ば水の氷りたるが如し、元水には相違なしといへども、少しも潤沢せず、水の用はなさぬなり、而(しかし)て書物の注釈と云(いふ)物は又氷に氷柱(つらら)の下りたるが如く氷の解て又氷柱と成しに同じ、世の中を潤沢せず、水の用を為さぬは、矢張(やはり)同様なり、扨(さて)此氷となりたる経書を世上の用に立んには胸中の温気(うんき)を以て、能解(とか)して、元の水として用いざれば、世の潤沢にはならず、実に無益の物なり、氷を解すべき温気胸中になくして、氷の儘にて用ひて水の用をなす物と思ふは愚の至なり、世の中神儒仏の学者有て世の中の用に立ぬは是が為なり、能思ふべし、故に我が教は実行を尊む、夫(それ)経文と云ひ経書と云(いふ)、其経と云は元機(はた)の竪糸の事なり、されば、竪糸ばかりにては用をなさず、横に日々実行を織込て、初て用をなす物なり、横に実行を織らず、只竪糸にみにては益なき事、弁を待たずして明か也。
(『久遠乃道標(みちしるべ)―二宮翁夜話精説』)


二宮尊徳は、筆にしたためたり、口で語ったりして、実際には事を起こさない者をはっきりと嫌ったようです。
後に娘婿とし、高弟とした相馬中村藩士富田高慶との最初の出会いが物語っています。
高慶は当時既に相当の名をなす儒者であったのですが、わざわざ面会を求めて訪ねたにもかかわらず、尊徳は「わしは学者を好まぬ」と一言の下に面会を謝絶したそうです。

これについても、市井の者はよく心すべきです。