私のいのち
より良く生きる、とはどういうことか、と問うと、
その答は、いろいろ出てくるでしょうが、
他者の視点から答えるのではなく、己が視点から答えるとすれば、
己が気持ちよく生きるということになりましょうか。
さて、そこでも、何が気持ちが良いかが、いろいろ出てきますが、
その「己が」というところが大事なのであります。
ここでも、他者の視点を己が視点と勘違いするという問題があります。
まず、この勘違いに気がつかなければ、本当の気持ちのよい生き方を知ることに至らないのです。
自らが赤ん坊であった頃にまでは、さかのぼって考えることはできないでしょうが、
できる限り幼い頃にまで、さかのぼって考えてみると、気がつくことがあるかもしれません。
それは、知が勝つ前の「己」(自分)に立ち返る、ということです。
そうすれば、己が気持ちの良い生き方に気がつくかもしれません。
しかし、それは我欲のままに生きる姿ではありません。
それは、本性に至る、というものによって、見えてくると言えばよいでしょうか。
幼い時も、今も、おそらくは命を終えるまで、なお変わらずに私が求めているものを求めていこうとする生き方こそ、より良く生きる生き方なのかもしれません。
その答は、いろいろ出てくるでしょうが、
他者の視点から答えるのではなく、己が視点から答えるとすれば、
己が気持ちよく生きるということになりましょうか。
さて、そこでも、何が気持ちが良いかが、いろいろ出てきますが、
その「己が」というところが大事なのであります。
ここでも、他者の視点を己が視点と勘違いするという問題があります。
まず、この勘違いに気がつかなければ、本当の気持ちのよい生き方を知ることに至らないのです。
自らが赤ん坊であった頃にまでは、さかのぼって考えることはできないでしょうが、
できる限り幼い頃にまで、さかのぼって考えてみると、気がつくことがあるかもしれません。
それは、知が勝つ前の「己」(自分)に立ち返る、ということです。
そうすれば、己が気持ちの良い生き方に気がつくかもしれません。
しかし、それは我欲のままに生きる姿ではありません。
それは、本性に至る、というものによって、見えてくると言えばよいでしょうか。
幼い時も、今も、おそらくは命を終えるまで、なお変わらずに私が求めているものを求めていこうとする生き方こそ、より良く生きる生き方なのかもしれません。