社会のなかでの誠実な行為とその腐蝕化

少数の人たちの、その誠実な心と思考から生じた社会的試みは、やがて一部の社会の人々の健全な心に受け入れられ、社会のなかに顕在化することになる。

こうして、その試みは、社会のなかで光が当てられるようになると、やがて社会のなかで力を持つものたちが、あるいは社会をコントロールする力を持つものたちが、その試みに触手をのばす。
あるいは、流行(はやり)に敏感な、流行(はやり)を好む人々が、その試みに触手をのばす。

そして、いつの間にか、その試みの誠実さは失われ、その試みをするものたちの心は、権力を指向する心へと変化したり、その試みをするもののなかに権力を指向するものや、権力に寄り添いたいものも加わることになる。

やがて、その試みは同じ様相を呈していても、当初の誠実さを失ってしまう。あるいは、それが誠実な人たちによるものなのかどうかわからなくなり、あるいは、誠実な心によってなされているものなのかどうかわからなくさせられてしまうのだ。そして、もっと厄介なことには、当初の誠実な心や思考をも蝕んでしまうのだ。

しかし、こうしたことは、社会のなかで(人々のなかで)常に起こってきたし、起こってきているし、常に起こってくることなのだ。