主体的生き方

・・・拘束のなさを、世からもう必要とされなくなったと思って孤独感・無力感に陥るか、この自由を完全なる解放として楽しむか、それはその人次第でなることで、はたからはどうしようもない。が、僕は、なろうことなら後者の生き方のほうがどんなによいかしれぬではないかと思う・・・中野孝次・閑のある生き方

これは、これから高齢期を生きる者に向けられているのだが、しかし、今、高齢期を生きている者だって同じだ。まもなくリタイヤする者も、同じだ。また、高齢期にあろうがなかろうが、現に今そう生きている者についてもそうだ。

「世からもう必要とされなくなった」と思うのは、世に寄りかかって生きている自分が、自分をそう思わせているに過ぎない。自分を他人の目で見ているのだ。なのに、それに気づいていない。

自分というものをしっかりと掴みなおさなければ、自分を自分が生きているのかどうか判らぬ生き方をしていることになる。
リタイヤしてからではなく、それ以前に、自分をしっかりと生きるようにしておかなければ、自分が生きていると信じていても、自分を生きていないことになる。そのことすら気づかずに自分を自分が生きていると思っている、そんな生き方で一生を終わる人間になるのだ。
たぶん、たいていの人間はそうなのだ。
このことは、それほどたいへんなことであるし、簡単そうできわめて難しいことといえる。

以前、誰がこんなに忙しい社会にしているのだろう、一体誰がねじを巻いているのだろう、などと書いたことがあるが、気づかなければならないのは、周囲に流される形で自分で自分にねじを巻いているということだ。これだって、自分を生きていないからなのだ。

「忙中閑あり」ということにしても、自らが自らを、しっかりと生きていれば、そこに閑をもてるのだ。

この閑であっても、世に流されると、後ろめたくなるが、こうしたことにもよくよく気をつけなければならない。世に流されるとは自分を生きられていないのだから。

マスコミやマスコミに出ている知識人などの言葉には、たいてい耳をかさないのがよい。

他人がどうあれ知ったことか、くらいのしたたかさが、自分を生きるには必要なのだ。