自分の時間

自分の時間といっても、いろいろと考え方があるだろう。まあ、それぞれ、好きなように考えるといい。


われわれの時間の一部はわれわれからもぎ取られ、別の時間は知らぬ間に持ち去られ、第三の時間はわれわれから流れ去ってしまったのです。なかでも最もはずべきは怠慢による損失でしょう。よく気をつけて見れば、われわれの人生の最大の部分は、ろくでもないことをしているあいだに消え去り、大きな部分は無為のうちに、そして全人生は、つまらぬことをしているうちに消え去ってゆくのです。(セネカ中野孝次訳「心の落着きについて」)


自分の時間は社会によって奪われているのだと考えるべきだ・・・いかにも極端な説に聞こえるかもしれないが、自分一個を中心に置いて考えれば、僕のいうことも成り立つと君も思うに違いない。(中野孝次


独を生きることを知らず、他人、世間、親兄弟に依存する人間がこんなことを考えてはいけない。常々、やらされている、と考えて生きている者は、こんな知恵を持ってはいけない。
しかし、自分を生きようとする者は、しっかりと考えなければならないはずだ。

また、若いうちからこんなことを考えすぎるようなら、ほどほどに考えてしっかりやりなさい、とだけ言っておくのが良いだろう。

人生の午後3時を過ぎても、こうしたことが何のことだかわからない御仁には、何も言う必要はない。
何をこの忙しいときにたわけたことを、と言う者には、黙っておけばいい。
あなたの生き方は素晴らしい、とでも言って、安心させておけばいい。

己の人生をどう生きようが、その人しだいなのだから。

しかしここで、しっかりしろよと時間のことをいうのは、自分しだいの自分の人生に気づいている者に対してなのだ。