永遠の生を生きている

私は死なない、と言う人がいる。
私は生き続ける、と言う人がいる。
私の生は永遠の生を生きているのだ、と言う人がいる。

このように言う人は現在もいるし、過去にもいた。過去の偉人たちのなかにもいた。

福岡正信氏の文面を借りて表現してみよう。


たいていの人間が見る生と死は、近視眼的視野からの一時的認識でしかない。

一つの生きているものの生と死について考えてみよう。

たとえば、草の種子は、春、芽を出し、秋、草の茎葉などは枯れ果てて死んでゆく。

しかし、小さな種子を遺す。

その小さな子実の中には、充実した生命が潜んでいる。

確かに枯れ果てて死んでしまったが、生命は生き続けるのである。

ここには、生命が死に絶えることなく、永遠に生き続けている姿がある。

死は、刻々の死でしかない。

生きている側からすると、そこに生命の歓喜はあっても、死の悲しみはなかったと言えないか。

死んでいる側からすると、どこまでも死に続けることになる。

しかし、生きている側からすると、どこまでも生き続けるのである。

我々は生きている。生きている側である。
したがって、どこまでも生き続けるのである。

個我、(小私)にとらわれないならば、
私は死なない、と言ってもおかしなことではない。
私は生き続ける、と言ってもおかしなことではない。
私(の生)は永遠の生を生きているのだ、ということにもなる。

今、この主体たる「私」は、この生をしっかりと生き、生ききらねばならぬ。
「永遠」の生である。しかし、尚且つ「人身得ること難し」でもある。

生ききり、且つ、生き続けるのである。


福岡正信氏は次のように書いています。
人間が見た生と死の現象は、近視眼的視野からの、一時的認識でしかない。この草にとって春の生と、秋の死はどのような意味があるであろう。人間は生を喜びと思い、死を悲しむが、草の種子は、春、土の下で死んで芽を出し、秋、草の茎葉などは枯れはてても、小さな子実の中に充実した生命が潜んでいる。生命の喜びは死に絶えることなく、永遠に生きつづけていて、死は刻々の死でしかない。この野草に、生命の歓喜はあっても、死の悲しみはなかったと言えないか。(『わら一本の革命』)