すぐれた人物との出会い

すぐれた人物を見たら努力目標にすること、くだらぬ人物にあったなら自己反省の資とすることだ。

賢をみては、斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内にみずから省みるなり。(論語・里仁篇)

若い時には、すぐれた人物と思える人に出会うことがある。
そういうときには、その人物を努力目標にするとよい。

しかし、全人的にすぐれた人物などという者はいるものではない。

年齢がいくと、人格的にすぐれた人物など、そう出会うものではないと気づくだろう。

出会うのは、ある面では「なるほど」と関心するが、ある面では「おやおや」と思うところがある、といった人物だ。

人生、年齢がいけば、すぐれた人格の目標とするモデルを求める考えからは離れなければならない。

なぜなら、すぐれた人格というものは、固定的に考えられるものではないからだ。それは、生きることそのものが固定的に考えられないというのと、同じことだ。