国語の時間(教育の問題から人間の問題へ)

子供のころ、国語の問題には、いつも辟易していた。

問題は、読解についてだ。

たとえば、「ここで、作者は何を言いたかったのか」などという問題だ。

ほとんど、いつも自分の答えが違っているように思えた。
また、教師の答えや解答用紙の答えを怪しんだ。

私は、やがて、この授業そのものを怪しみ始めた。

今も、国語には、このような問題があるのだろうか。


いつか、ある作家(井上ひさしさんだったかもしれない)が、次のように話していた。

国語の問題に自分の小説が出ていて、ここで作者はどのようなことを伝えようとしているのか述べよ、といった問題があり、その答えと自分の考えていたこととが違うということだった。
そして、自分でも解けないと言い、国語の問題の「おかしさ」について、話していた。

作品を通して、人間を考えるときも、また、いろいろなことで、自分を含め人間を考えるときも、その答えというのは、一つとは限らない。
また、あるときはそうであってもその答えは変化する、ということも知らねばならない。

大人である国語教師が教えようとしたことに対する子供ながらの疑問、そして、その疑問を抱く自分に対する信頼、これをつぶそうとする教師。

しかし、私は、教師よりも自分のなかに起こってくることの方に動かされていた、と思う。
そして、教師の話をいつも鵜呑みにしようとはしなかった。

いつも、何か大きな力への疑いと、どうしても譲れないところでの、あきらめのようななかにあったのかもしれない。

(大人の目で、今、こうしたことを考えれば、子供であった私について、本当にけなげに思えてくる。)

私のなかの教師への疑い、教育への疑問は、そのようにして育っていったのかもしれない。
(もっとも、このような疑問を持つようにと、無責任に、誰しもに(子供たちに)伝えたいとは思わないが・・・・。)