自分のテンポ

あれこれしているうちに、たいへんな時間になってしまった。

うっかり夜遅く何やかやとしていると、頭がいつの間にかさえてしまって、眠る状態でなくなってしまうので、大いに困ったことになる。

それで、ラジオをつけて、深夜便なんぞを聞いていると、古い歌が流れてくる。

私がまだ生まれてもいない時代の歌なのに、懐かしく思えてくるので不思議だ。

まだ母親の腹の中にいたわけでもないのに、それでも古い歌が郷愁を誘う。

そうだ、あのテンポがいいのだ。

私は、やはり、現代のテンポが好きになれない。人々のテンポとおせっかいにもうんざりする。おせっかいをやいてもらいたがる人たちにも、閉口する。

私は、「自分が現代のテンポに合わない」とは言わないし、考えない。
それでは、私以外の連中から不適応者というレッテルを張られて、納得する人間と同じだ。

現代のテンポが、私に合っていないのだ。

現代のテンポといっても、多くは見知らぬ人々、つまり私にとっては不特定多数の人々によってつくられているテンポだから、せめて、自分の周囲十メートル四方くらいは、自分のテンポをつくってやろう。

そして、時折、あわただしく生きている人たちを観察してまわるのもいいだろう。

自分のテンポが守れるときは、そのテンポを守る。できる限り侵害はさせない。

理解者には開放しようか。そして、その時間を共有しようか。
いや、いや、やはりやめておくべきだろうなあ。

自分のテンポは、自分だけのものだから。

共有できそうな人とは、共有できるところで共有しよう。それでいい!