子供の教育と人のモデルについて

人格者などという言葉を、今の小中学生のどの程度が知っているだろうか。
また、青年たちの誰もが知っているのだろうか。

教育の場でも、ほとんど使わない言葉になっているのだろうか。

ましてや仁者などという言葉は、さらに知らないのではなかろうか。
もっとも仁者は、漢文の授業などで、わずかに出てくるかと思うが、はたして現在に生きるどの程度の人が知る言葉だろうか。

テレビに映るにぎやかにおしゃべりをしている人たちが、多くの人々にとっての人の標準になってしまう現在である。
仁者という言葉は知らなくとも、人格者という言葉くらいはわかるのだろうか。

人格者という言葉が、たとえば、小学生あたりに教育の場でほとんど使われていないとすれば、これに代わって使われる言葉は何だろうか。

「りっぱな人」という言葉になるのだろうか。

仮にそうだとして、「りっぱな人」になりなさい、などと教えるだろうか。

まず、教育をしている者が、「りっぱな人」とはどういう人なのか分からないのではないだろうか。

ひょっとすると、学校の先生は、「りっぱな人」がどういう人であるかを自問することもなく、そのようなことを言う人に問い詰めようとするかもしれない。

「いったいそれはどういう人間だ」、「どのような人間をりっぱな人と考えればよいのだ」と。
「子供をある枠にはめるのは良くない」と言うのかもしれない。

「りっぱな人」という言葉が使われないとすれば、子供を教える時に、どのような言葉が使われているのだろうか。

「良い人になりなさい」と教えているのだろうか。

ひょっとすると、どういう人になりなさいと教える教え方は、今ではほとんど見られなくなっているのだろうか。

そうした教育の揚句に、
自身がどういう人になればよいのか分からないというのが、子供の教育をする人たちも含めて、現代に生きる多くの人たちではないだろうか。

人として生まれて、正しくどういう人にならなければならないかを教える教育がなければ、国も社会も組織も人間関係も家庭・家族も荒んでいくに違いないのです。

所謂仁者は、人を視ること、猶ほ己れのごとし。其窮するや、家國天下の事を挙げて己れが分内にあらざるはなし。所謂不仁者は、纔(わずか)に躯殻を認めて、以て己れとなして、親戚兄弟、視て猶ほ路人のごとし。況や家國天下の事をや。是故に大人は、其世にあるや、天下の人、之れを尊び之を親む。其没するや、後世の民、之れを哀れみ之れを慕ふ。而して不仁の人は、人皆其生を苦み、其死を幸とす。
(池田草庵語録)

人も、人の子も、己の親兄弟幼子も、己自身も、物と化す人と世の中と教育が、今此処、この国にある。