ディベートと人の判断価値と共存の原理

人間の価値判断(判断価値)というものは、すべて主観に出で、随って相対性を免れ得ない・・・(したがって)・・・たとい自分の説が是であると思っても、人から見れば非となり、人の説が非だと思っても、その人には是である。だからわが説を固執して論争したとて、何れが真に是なるかは決定のしようがない。第三者がそれに是非の論を加えたところで、それも亦その人の相対的な主観から出たものであるから、これまた是だと断言することは出来ない。こういうことが理解出来れば、自説を固執して議論することの誤りであることがわかる・・・では如何にすれば正しい判断が得られるのか。それは主観的、相対的判断(判断価値)を放棄して、自然の大調和の道に因ることである。・・・これに因れば、各自の立場をそのままにして、論争を止めさせることが出来、各自の差異をそのままにして、これを斉一にすることが出来る・・・これは共存の原理を説(くものである)。
(岡田武彦『座禅と静座』)

上記は、荘子の説を説明したものである。

近年、「ディベート」について立派な大学の先生方があれこれとこれを取り上げ、誇らしく若者たちにも教えてきた。

しかし、多くの日本の人々は、議論をして相手を打ち負かすことを、誇るべきものとは思わないようである。
一方、上記のような荘子の考え方は、いかにも日本人が好み、求めるやり方のように思える。

そして、この考え方は、奇妙にも、現代の中国の人々よりも、日本人の志向に沿っているようである。

さらに言えば、この考え方はあらゆる世界の人々にとって、重要な考え方である。

「如何にすればこの考え方を一層実践化できるのか」、日本の研究者によって、世界の人々のために、大いに研究して欲しいものである。日本の研究者たちには、誇りを持って、もっと自身というものを見てほしいものである。

さて、この考え方を生かすのは、組織内における議論という面ではなかなか難しいが、「自身が如何に生きるべきか(行動すべきか)」というところでは、まだ生かしやすいに違いない。

大切なことは、「己と自然との大調和の道」を考えていくことである。

ここでいう「自然」が、人間と切り離したところの、欧米で考えられてきたnatureでないのはもちろんである。