生活習慣と人間

人間が、社会的に生きる人間になるためには、日常生活動作や生活習慣というものを身につけていかなければならない。
また、社会的に生きる人間を育てることのできる人間になるためにも、これらを身につけていなければならない。
あるいは、これらの重要性をよくよく知っていなければならない。

日常生活動作も生活習慣もそれらができるようになっている者にすれば、特に意識して行っているほどのことではないが、これらができなければ、人は社会というものと協調して生きることもできないし、自身をより成熟した人間として成長させることもできないのである。

日常生活諸動作とは、食事を食べることに関する諸動作、排泄にかかわる諸動作、衣服等を着たり脱いだりすることに関わる諸動作、さらにすすんで、歯磨きや洗顔、入浴などに関わる自身の身体を清潔に保ち、衛生に気を配る諸動作などのことである。
さらに言えば、見苦しくないよう身ぎれいにすることなども大切な動作、行動である。

生活習慣として、朝の適切な時間に起床し、夜の適切な時間に就寝すること、また、3食の食事を適切な時間に取ることなどは、もっとも基本的なことである。
また、生活習慣というのは、日常生活に必要とする諸動作が、日々の生活時間のなかで適切な時間に適切に行われることを基礎とする。

これらの行為をすることが自らできること、また、これらの生活行為を自ら管理できることが、社会的に生きる人間と成る基本である。

それらができるようになると、人はそれらの行為・行動の重要さを忘れてしまうが、それは大して意識もせずにそれができるようになっているからである。

私たちは親によって、また、社会生活を営む大人たちの代表たる大人たちによって、それを教えられ、育ったきたのである。
また、親や大人は、幼い子どもたちにそれを教えてきたのである。

人は、社会の中で、人間を育てるためのそうした行為を面々と続けてきたのである。

しかし、自由を履き違え、自由気ままに行動し、生活することになると、人々に、また自らに生活習慣をおろそかにした生活が忍び寄ることになる。

ひとたびそのような生活が身につくと、あるいは、そのような自由気ままな生活を子に教えてしまうと、社会での営みができかねる人間となってしまう。

あるいはまた、当たり前の生活習慣や基本的な日常生活諸動作とそれらに関わる生活の姿をないがしろにするようになると、人としての尊厳にも悪が忍び寄ることになる。

それは、自身にとっても、社会にとっても、きわめて残念なことである。

人は、親たちは、幼いものを教える教育者たちは、また、人の日常生活を助ける者たちは、
基本的な生活習慣というもの、身につけた日常生活諸動作というものの重要さを、よくよく再認識せねばならない。