善悪の行動と心と私

私たちは、生きている以上、いつも何がしかの行動をしています。

そこには、

それをせざるを得なくさせる自らの心が働いていて、そうさせているといえます。

しかし、行動しているのは「私」であって、私に「私の心」がそうさせているのだ、と言うわけにはいきません。
それでは、生を無自覚に生きているだけですし、私の生を自分で生きていないことになりますからね。

悪い行いをしようとするときには、よこしまな心が働いています。

しかし、

そういうときにも、心を穏やかにしてみると、その心が悪いもので、欲や情に染められたものであることにうすうす気がつきます。

そこには、「うすうす気づかせる」というさらなる心の働きがあります。

「私」というものは、表面的な心の働きに支配されず、心の奥から出てくる心の働きを大切にしなければなりません。

自身の心の奥にあるその働きは、単に知るというよりも、感知されるものです。

悪い行いをしようとするときには、心は穏やかな状態にありません。
このことは、誰もが知るところでしょう。

だからこそ、心が穏やかでないときには、心を静め、本当のところを感知できるよう、自我の中心である「私」が、自身をそのように仕向けなければならないのです。