玄学と衒学
玄学(げんがく)には出会いにくいが、衒学(げんがく)には出会いやすい。
玄学とは、深遠な学問である。深遠なだけに光もあたりにくい。それゆえに、人の目にもつきにくい。
一方、衒学とは、学のあることをひけらかすことだ。衒とは、たぶらかすことを意味する。衒学とは、つまるところ、たぶらかしの学問ということだ。
森田正馬は次のように言う。
学問らしく見せかけ、日常ありふれたことにもことさらに述語を多く使い、説明をむずかしくしようとすることだ。
たとえば、
「腹をかかえて笑った」といってもさしつかえないところを
「不意の変化による滑稽の刺激にたいして、笑いの衝動を抑制することが不可能であった」とか、
「笑いによって精神的エネルギーを放散した」とか言って見なければ気がすまないようなものである。
学問とは無縁に生きる者も、学者とか研究者とか、先生と呼ばれる人々も、この衒学には誑(たぶら)かされる。
特に先生と呼ばれる人たちは、虚栄心を携えやすいところで生きているだけに、このたぶらかしに合う。
正しいものを見つける目を持つためには、地に足をつけていなければならない。
玄学とは、深遠な学問である。深遠なだけに光もあたりにくい。それゆえに、人の目にもつきにくい。
一方、衒学とは、学のあることをひけらかすことだ。衒とは、たぶらかすことを意味する。衒学とは、つまるところ、たぶらかしの学問ということだ。
森田正馬は次のように言う。
学問らしく見せかけ、日常ありふれたことにもことさらに述語を多く使い、説明をむずかしくしようとすることだ。
たとえば、
「腹をかかえて笑った」といってもさしつかえないところを
「不意の変化による滑稽の刺激にたいして、笑いの衝動を抑制することが不可能であった」とか、
「笑いによって精神的エネルギーを放散した」とか言って見なければ気がすまないようなものである。
学問とは無縁に生きる者も、学者とか研究者とか、先生と呼ばれる人々も、この衒学には誑(たぶら)かされる。
特に先生と呼ばれる人たちは、虚栄心を携えやすいところで生きているだけに、このたぶらかしに合う。
正しいものを見つける目を持つためには、地に足をつけていなければならない。