欧米優位の呪縛

他者の権利を侵害しない限りにおいて、自身の幸福を追求して生きてもよいなどという考え方は、欧米から来た、個人を優先した考え方だと思うんだよね。

だから、欧米流一辺倒で、このような考え方やものの見方でもって、あれこれ言っているえらい人たちの話は、話半分というか、話3分の一くらいで聞いておくのでいいと思うんだ。

たいていの日本人は、その心の根っこには、個人を優先にする考え方よりも、関係を優先する考え方を強くもっているように思うがどうだろう。

だから、多くの人は、(欧米流の人たちも結局のところは)、相互に主張しあって妥協点を見い出すやり方よりも、相手を思いやってというか、動が静になる道を見い出そうとするやり方をついつい選ぼうとするのかもしれない。

そのやり方がへたくそなものも、上手なものもあるけど、でも、それでいいというか、それが自分や自分たちの根っこにあるものにかなったやり方なんだ。

なぜって、自然にやってるやり方っていうのは、根っこにあるものから出てきているものだからね。

えらい人たちは、特に上層のお役人や学者さんたちは、そういう根っこの部分が自分にも社会の人たちにもしっかりあって、そういう社会で、そういう社会関係や人間関係で生きているってことが見えないくらい頭が欧米化してしまっていて、

(何せ、欧米流のもののすべてを、いっぱい勉強して、えらくなった人たちだからね)、

それでもって生きて、考えて、行動しているようなんだ。

それがえらい人たちだから、みんなに与える害は大きいんだな。

それらの人たちは、国の進む方向を議論したり、社会の制度を作ったり、教育に影響を与える学問をしたり、子供や青年を教える教育をする人たちだからね。

多くのみんなは、自分や自分の周りで起こる嫌なことが、なぜ起こるのか、わからなくて、ああだこうだと騒いだり、自分を責めたり、見渡して見ることのできる誰かを責めたりするのだけど、本当のところは、根っこのところにあるものとその上層にあるものとに大きな違いがあるってところに、問題があって、その違いがあまりにも大きくなると、破壊的な現象になって、表に現れてきてるんだ。

だから、欧米流の考え方について、しっかりとした問い直しをしないと、大変なことになると思うんだ。

資本主義社会の発展は、18、19世紀くらいからなのかな。

そして、日本に入ってくるのは19世紀。

(でも、その前に、彼らがキリスト教を広めたってことも少しは関係してるんだろうけど。)

この資本主義社会の発展が、われわれの心のうちにある、あらゆるものについても、欧米の優位性をもたらしているんだ。(もちろん、資本主義社会の発展が悪いなんていってるんじゃないよ。)

ひょっとしたら、いや、たぶん、社会主義国の崩壊は、えらい人たちに対して、もっとそれを加速させたかもしれない。たぶんそうだろう。

まあ、とにかく、

人間の生き方についてや、世界観や社会観、人間観について、そしてものの見方のあらゆることについて、

日本人にとって、日本の社会にとって、この欧米の優位性の呪縛から抜け出すことは、きわめて大きな、そして、急いで何とかしないといけない課題だと思うんだよね。