日本人の心性(過去、現在、未来)

林秀彦さんが、こんな文章を書いている。
う~ん・・・と、うなってしまったので、ちょっと長いけれど引用させていただきます。


日本人の命の基本や根本は、一切合財、形而下にあるものではなく、形而上の価値観に従い、その上に日常の生活がある(少なくとも過去にはあった)。それが西欧の形而下文明に汚染され、そのあまりの価値のギャップに脳震盪を起こし、現在何もかもが大混乱を起こしている。
・・・
日本人の知性には、他者(人間同士だけでなく自然物を含めた相手)を自分と同じように「いつくしんでいる」成分がある。ハートだけでもなく、マインドだけでもなく、フィーリングだけでもない、いかなる国の言葉にも置き換えることのできない「気息」のような力があり、それが言葉を無気力化させ、西欧言語の言う「愛」とはまったく質の異なる「情」が、波動としてお互いの心に加味され、人間のみか、花鳥風月、先祖の魂を含めた八百万の神々、つまり森羅万象との意思の疎通を完結させているのである。
・・・「日本人は情波の国の情波の人々」と名づけるよりない。
                        (林秀彦『日本を捨てて日本を知った』草思社

林さんは、小津作品の台詞、その「なにげない」会話の劇を研究し、日本人を「一を聞いて十を知る」民族だという。そして、非・日本人(ノンジャパニーズ)らと区別する。

日本人は、明治に入って以降、特に西洋語から強引に新しい日本語を作り、知識を導入してきているのだが、戦後はそれがいっそう急激に進行した。
そして、現在では、あからさまな資本主義社会形態の導入に突き進んでいるようだ。
今後、いっそう、言語だけでなく、生活の中の行動様式の微細な部分に深く入り込み、その魂を混乱させることになるだろう。

「人のために」などといった「自己犠牲を惜しむべきでない」とする心の持ち主は、その善良な、あるいは崇高な心を食い物にされて、大混乱のうちに、精神的自死に自らを追い込むことになるのかもしれない。

「民主主義」も「愛」も「人権」もわかったかのように使っているに過ぎないのかもしれない。
いや、きっとそうだろう。

教育改革に手をつけようとしているが、今や経済生活を通して、急速に日本人の心性が蝕まれていく段階にきていることを考えれば、この手立てでは、「できない」と言わねばなるまい。