教育者(たちよ!)

いっそうの資本主義社会への邁進。

契約主義の、契約社会。
自由主義から、個人主義
権利教育、権利認識から、権利主張。
日常生活では、自己主張社会へ。

欧米の自由主義、権利思想をそのまま取り込む愚か者。

欧米には個人の自由を認め、権利を尊重する思想が発展し、個人と社会との関での契約関係という認識の発展があった。

これだけでは、殺伐とした人間関係の誕生と展開にしか進展しない。
しかし、そうはならない。
彼らは、キリスト教世界に生き、隣人愛の文化のなかに生きている。

日本の知識人の多くは、それを知らず、理解せず、人権思想に飛びついた。戦後それが極端となった。
そして、その結果が今であり、その道は続いている。


日本は、140年ほど前、大政奉還により、武士による政治体制を転換し、多くの武士たちは予想もしなかった、武士階級を壊滅させ、欧米資本主義社会にアジアで最初に仲間入りをした。
そして、すぐさま肩を並べ、黄色人を小ばかにしていた白人ばかりの国際関係の場に入って同等に声を出すようにまでなった、日本。

そして、欧米列強がしたように、あるいは、しているように行動しようとした後発資本主義国の日本。

そして、まもなく、こっぴどく欧米列強・大陸諸国家に叩き潰された日本。

その結果が、あるいは欧米の目から見ると、その成果がしっかり定着しているかのようになった日本と日本人。

明治期には、教育も和魂洋才として、考えられた。

和魂に何を持ってくるかには議論がある。

しかし、これがなければ、あるいはこれに変わるものがなければ、いっそうの資本主義社会への邁進は、日本のなかで、さらに様々な奇妙な人間行動現象を見せるということが、予言できるだろう。

子供たちが、日本社会に、自らの命でもって、警鐘を鳴らしているではないか!
血の涙を流しているではないか!
うめいているではないか!

あの悲鳴が聞こえないか!

それとも、見ざる、聞かざる、言わざるか!


情、なさけ、人情などという、情緒の豊かな世界が、私たち日本人の文化と、私たち日本人の血のなかに今もある。

このことを、私たちはもう一度知り、掘り起こし、育て、世界のなかでプライドをもてるほどにしていかなければならない。
そうでなければ、国は乱れ、国際社会でも二流、三流のままで行くだろう。

目に見える日本の文化を、日本文化と勘違いしてはいけない。
文化の本質は、目に見えるものではない。
目に見えるものは、現われにしか過ぎないのだから。

浪花節浪曲)も教育材料に加えなさい。「寅さん」も教育材料に加えなさい。「てやんでぇ、べらぼうめ!」と啖呵を切る心意気とは何かを考えさせなさい。「そいつをいっちゃぁ、おしめぇだ!」を考えさせなさい。「おとっつぁん」「おっかつぁん」という人間関係を考えさせなさい。)

和魂に武士道を持ってくる偉いお方もいるが、そうとばかりは言えない。
血は、もっと深いところにある。