ものと金に縛られて

狭い世界の中で常識とされている価値で生きれば、競争原理で動くことしかないし、お金に振り回されるしかないし、そうすると虚しい。虚しさをいやすために、またお金によってものを買い込まざるを得ない。虚しさのストレスの解消のために、ものに振り回されている。そういう程度の「もの」だったら、感情移入することもないから、簡単に捨てられてゴミとなる。そんなもののためにお金を使って、そのお金を手に入れるために、またあくせくしなければならない。まったく悪循環です。(槌田劭編著・地球をこわさない生き方の本)

この悪循環を断ち切るためには強い意志と柔軟さと寛容さ、そして賢明さが必要だ。
世間の常識的価値観に逆らいながらも、その常識的価値観を生きている人たちと共に働き、関係をもちつつ、その価値観による情報刺激に囲まれながら生きてゆくのだから、よほどしっかりとしていなければならない。周囲とは異なる価値観で生きる、強固な意志をもたねばならない。
だからといっていつも周りと強い緊張関係にあるようではストレスが大きすぎる。ともすると排斥される。だから、自分と価値観の違う周囲の人たちを受け入れなければならない。また、価値観がぶつからないように巧みな関係をもたねばならない。そこに賢明さが求められるのである。
ものと金に縛られる生き方は、我々の骨の髄まで浸透している価値観に拠っている。従って、病んでいる自身の問題の本質には気づきにくい。
ミヒャエル・エンデの時間泥棒の話も同じだ。
しっかりしていなければ、ものと金に縛られて、気づかぬままに人生は失われてゆく。

人生と経済生活を考える

個人のライフサイクルと経済生活には、一般的に一定のパターンがあります。
ライフサイクルの各ステージについて考えてみます。
まず、教育を受ける期間を終えて働き始めると、自由に自分一人でお金を使えて、豊かになる段階があります。
次に、結婚して二人で働いている期間があります。この間は、二馬力となりさらに豊かさ感は増します。しかし短い期間です。
次の段階では、子供ができると(妊娠中から)妻が働けなくなって一馬力(後に二馬力を回復するが)での生計と食費等が2人分から3人分(或いはそれ以上)に変わり、養育教育費が加わりますから、家計は急に、そして次第に厳しくなります。ここから子供が経済的に独立するまでが、第3のステージです。この期間が20から30年程と長いです。(30代半ばで始めるとほぼ60代に終わります。)
次に、子供が独立した後は二人で働き、それを二人で使う元の段階に戻りますから家計は楽になります。短い期間です(殆ど無い人生もあります)が、これが第4のステージです。
次は最終ステージで、歳をとって(十分に或いは全く)働けなくなり、人によっては家計は大変厳しいものになります。社会保障制度のない時代では、子による扶養か蓄財がなければ病気と飢えの短い老後人生を終えます。従って、現代でもこのステージで蓄財の多寡は大きく人生に影響します。しかし、多ければ多いほど人生に良いかどうかは一概に言えません。また、国民年金(老齢基礎年金)はざっと月に6万円程度と考えておけば良いでしょう。このステージは精神面では最も豊かに生きる可能性のある時期ですから、別の意味で家庭経済の重要さがあります。
いずれにせよ、こうして私達はいのちを終え、家計人生を終えます。
人生の経済生活をざっと5つのステージに分けました。生後の親の経済的扶養下にある段階を加えると6ステージです。しかし、経済的に、人生をいかに生きるかを考え、自ら自律的に生きていく期間となると、その経済生活は最初に示した5つのステージと言えます。
そして、これは勤労生活者にとっての基本的な経済生活パターンですから、これを知った上で自身の人生の経済設計を考えておく必要があります。
前述のステージには社会保障制度の話は細かく入れてませんが、これがあるから、多くの人は取り敢えずは日々「飢える恐怖」からは免れています。(社会保障制度をもっと充実させ安心を得ようとすれば、企業も個人ももっと税金を出す社会を作ることになります。)
しかし、老後のステージでは国民年金の老齢基礎年金かその他の年金か、またその他の年金なら給与収入額の多寡(その分支払額が多いですから)によって年金受給額に差がでてきますので、暮らしの安心にも差がでてきます。
子供扶養の第3ステージでは何人の子供を持つかによって異なってきますし、その教育費の貯蓄課題が出てきます。また、自家を持つか否か(持った方が良いでしょう)、持つならいつ頃か。早く持てば持つほど人生が早くに金で縛られます。遅く持てば、ローンの支払いが老後の暮らしに影響する場合があります。このステージは、経済生活上の沢山の課題が出てくる段階です。
しかしいずれにせよ、人生の経済生活過程はある程度は予想できることです。予め緩やかながらも経済計画を持って生きて行くことが、賢い自分らしい人生の歩みを進め、また終える上で必要になりましょう。
人生の経済計画が、また経済人生が壊れるのは(或いは壊すのは)一時の欲、欲による野心、一時の感情の高ぶりにあるということには注意しておかねばなりません。そして夫婦なら、共にこのことを考えていなければなりません。

自立と他力

自立という言葉は、細かく考えれば色々な意味が含まれます。例えば、普通すぐ出てくるのは経済的自立でしょうか。そして精神的な自立(自律)も考えられます。さらに細かく自立概念を分析して、あれこれの内容を加える人もいます。
しかしここでは、生きるということでの自立と、敢えて曖昧なままにしておきます。したがって、あれもこれも含めた、生きるうえでの自立です。
そして、この自立と他力との関係を考えてみます。
普通なら、「他力で自立」などおかしいだろう、ということになるのでしょうが、次のような表現もあります。五木寛之さんの考え方です。

自立の勇気をもたらしてくれる見えない力が、<他力>であり・・・
(五木寛之「他力」)

これは自我的な「私」の自立に対して、その大元となる大きな力の働きを認め、受け入れた姿を示すものと思います。
この大きな力とは、自我的な「私」を包み込み、尚且つその「私」に働きかけている力でしょう。
五木さんの先の引用に続く言葉は、次のものです。

「大きな宇宙の生命力である」

自身の自立を考える時、普通、他力を考えるのは、慎重であった方が良いように思います。何故なら、自力が早々に後退するかもしれないからです。私は、個人の力量差はあるとしても、自力の力(自力力)を養うことは大切だと思っています。
しかし、一方で大きな力の働きについても関心を持っておく必要があろうかと思います。大きな力の働きは、思索してわかるというよりも感覚でわかるものです。誰でもがわかるものだと思います。(でも、科学的であることに価値をおく現代的価値観に身を引かれれば拒否的になるのですが。)こうして自身のまさに生きている感覚から、大きな力を自分が自分に受け入れられると、どのようなことが起こるか。そこでは、自分ではやれるだけのことをやったという自己への信頼、そして、後はことに委ねるという考え方ができてくるのではと思います。
自力だけの考え方では、やるだけのことはやったが、もうだめだ、ともなりかねません。
自立的に生きるには、まずは自力に軸足をおきつつ、大きな力の働きもあることを認め、受け入れることが大切と思います。
なお補足ですが、ここに書いている「他力」は、もちろん他人の力のことではありません。また、五木さんは先の引用の後、「本願」という言葉を続け、「大きな宇宙の生命力である本願」という言葉を使っています。これは宗教的な意味も絡めてのことです。それから、大きな宇宙の生命力の働きとしての個の自立志向が考えらていますが、個を超えた大きな力の働きも考えられますので、私はそれも踏まえてここでは書いています。五木さんも、個を超えた大きな力についても考えておられるように思います。

人生は流れゆくが

行く雲も、流れる水も、自然に逆らうことなく、すべてまかせきって漂い、移ろって行く。(枡野俊明)

人生は、大きな大きな目で見れば、移ろい漂うものにも見えてきます。

人生のその時々では、ただがむしゃらに懸命に泳いでいるような時もあれば、藪の中でチクショウチクショウと独り言葉を吐きながら進む時もあります。
それでも、大きな大きな流れの中では、ただ漂って生きてきたと言えるのかもしれません。いや、きっとそうでしょう。

頑張る時には、頑張る。あまりにきつい時には、ひと時身をまかせる。
あるいはまた、それなりに進んで行く。
そしてまた、決断すべき時が来れば、きっと自分は決断して進んで行く。
それで良いのです。
(しかし、これまでに書いていることでおわかり頂けると思いますが、人生をぼんやり生きよ、ということではありません。)

「自分はこのままでいいのだろうか」などと、今かかわっていること、やり続けていることを疑っても仕方がありません。自分を信じて、そしてまかせきったら、おのずから結果はもたらされます。(枡野俊明)

上記は、特に自分に迷って立ち往生している時です。

己の根本、根底を本当に信じる道、それは神仏を信じる道といずれ繋がるように思えます。このことはこれまで書いてきている内容から、お察しできると思いますが、ここでは「神仏」よりも「自分自身」に重きを置いて書きました。

それぞれの人生の道の歩み方

言うまでもなく、人の人生は百人百様だ。従って誰か著名人が、人生とは斯く生きるべしと言い切ったところで、その人はその時そう思っていたというに過ぎない。ましてや、抽象論では人生は生きられない。参考になる事があれば、何からでも参考にすれば良いというだけだ。

ところで人の人生は様々だが、生きる術というものはある。これは初等から高等教育までのどの過程でも学校では教えてくれない。(道徳教育は人としてこうある方が良いとは教えてくれるだろうが。)

では、生きる術を学ぶにはどうすれば良いか。文字を読める目があり、多少とも理解できる頭があるなら、自分にあった生きる術というものを自分で探し出す事だ。本を読んだり、ネットで読んだりでも学べるだろう。本などは読み漁るくらい読むべきだ。良いと思うものは繰り返し読むべきだ。なにせ、自分の人生を真剣に考えているなら尚更だ。

勿論、友人や身内に聞いて、生きる術を学ぶこともある。しかし、極めて個人的なこととなればどこまで話ができるか。また、どこまで理解してもらえるか。自分に合ったものは自分で探し出すのが最も良いということがある。
自分の周囲の同僚や他人からも学べる場合もある。誠実な人間からも、不誠実な人間からも学べる。

また、社会的に特定の境遇にある人は、過去或いは現在の、自分によく似た境遇の人がどのように生き抜いたのか、また、生きているのかを知ろうとするのも良い方法だ。これは、人生は人様々といっても、社会的に共通するところが、共通した生きづらさを共有するからだ。

社会的に特定の境遇にも色々ある。例えば、経済的困窮者、病人、各種の障害者、障害児をもつ親、高齢者、ひとり親家庭の親、日々親の介護に明け暮れている人、単身赴任者など様々にある。

これらの人たちの中には、社会的に自分たちでグループを作ったり、大きくは社会組織化を図って、生きる知恵を出し合ったり、支え合ったりしているところや、人たちもいる。以前に書いたpeople firstもそれだ。自立生活センターなどでは生きる術を教えるプログラムもある。

また今日では、ネットで同じ様な境遇の人を探し、ネット上で支え合う関係を作ることもあり得るだろう。(当然、社会には人を騙す人間もいるから用心がいる。)

ある種の人たちが社会的支援を必要とするとの認識の下では、然るべき福祉行政機関や福祉事業所、NPO団体などがその仲間関係の橋渡し役をする場合もある。また、直接的に暮らし方の支援もする。しかし、そうは言っても不信感がある人は、自身に関連する福祉行政機関や医療機関にまずは頼るべきだろう。こちらはとりあえずは電話でも可能な場合もある。近頃では、積極的に出向いてくる方法も、彼らは方法論的に理解し始めている(例によって輸入方法論だが)。
ここでも、福祉支援者とはいえ人間であるから、ピンからキリまでいることは知っていなければならない。福祉支援者には失礼だが、謙虚な御仁ならこの私見にご同意いただけるだろう。

さて一般的には、生きる術について、社会的人間関係の術としては、長い歴史の中で読み継がれているもの、論語は良いだろう。ただし如何に要領よく食っていくかの話はない。彼らはほぼ食っていけている者たちだったからだ。金は後からついてくるくらいの話はあるかもしれません。

人の道としての生きる術は、論語などのかつての中国(勿論今の中国ではない)古典に加えて各種の宗教関係、聖書や仏教経典・仏教書などは有用だ。ここでも勿論如何に要領よく食っていくかはありません。教えてくれるのは禁欲や清貧です。しかし、これは悪いことではない。

老子は、現実の社会関係からは少し身を引き離した形での考え方で、これはこれで有用でしょう。社会関係から少し身を引き離すこと自体が、堂々としたここでの生きる術と言えます。

その他、現在では沢山の生きる術を書いた本が、玉石混淆ある。これと思うところだけでも参考にすれば良いのです。(ただし、自身の根を養うのはまた別の話です。)

何れにしても、生きる術として、これだ、これでなければというものはありません。(私はこれを信じて生きる、という場合は人それぞれの自由です。)

それぞれの人生を如何に歩むか!

それぞれに、誠実に、勿論、力を入れたり、力を抜いたりしながら、自分なりにしっかりと歩んでいくしかないのですね。
自分のいのちを大切にしながら!

人生と運動会

瀬古浩爾さんの本の中に、人生を運動会の話と関連させて、次のように述べたところがある。少し端折って、載せます。

小学生のわたしは負けないようにと、走った。自分ではそんなことをする理由はなにもないのに、なんで一列に並ばされて競争しなければならないのか。なにもわからないまま、ただただ、言われたままに走ったのだが、あれほど必死になったことは、後にも先にもない。・・・・・
人生は、この駆けっこに似ている。誰に強いられたわけでもないのに、人生もまたなんの疑いもなく、生きるものだった。・・・運動会とのちがいは、人生には順番がつかないことである。つけようとする人もいるが、つけられるはずがない。わたしもつけない。

彼の言うように、人生には順番はつかない。しかし、それは、わかっているのだが、それでもやはりいつの間にか順番をつけようとしてしまうのが、大抵の人間だ。他人に対する順番付けならどうということはないが、自分に対して順番をつける場合は、これが高じると時としてとんでもなく厄介なことになる。その人は、人生をあくせくと生きることになる。自分を他人と比較して鞭打ったり、強い自己反省に陥ったりするだろう。時には良いが、しょっちゅうでは参ってしまうはずだ。挙げ句の果てには死んでしまうことだってある。

大抵の人間は、「人生には順番がつかない」ということをわかっている。しかし、その実、本当にはわかっていないのだ。
「なんで一列に並ばされて競争しなければならないのか」と思う以前から、そのような社会生活に入っているのだから、簡単に抜け出せるわけがない。

そこで年を経て、我が身を振り返って、なるほど確かに困ったものだという人は、お題目のように唱える癖をつけるといい。
「人生には順番などつかぬのだ」「自分の人生を、自分で、他人(ひと)の人生と比べるな」と。

坊さんたちが、なぜお経をたびたび唱えるのか?
実は、これも同じことなのだ。(たびたび唱える意味を忘れて唱えている坊さんが多いとは思うが。)
そこに書いている大切なことを、自分のなかに埋め込み、自分を変えるためなのだ。

自身の人生に対して大切だと思う言葉は、それを自分に言い聞かせるように、たびたび唱えること。そして、ただ唱えるだけでなく、そうやって、自分に言い聞かせること。

さらに、それでもダメなら、口で言うだけでなく、それをたびたび書くこと。
これらは、自分を変える極意のような方法だ。

自分をいつの間にか他人(周囲の人々)と比較して、悔いたり、責めたり、自己卑下したりしているなら、「自分の人生を他人(ひと)と比べるな」と思うがいい。
「人として、生かせていただいているだけでも、ありがたい。」
「こんな綺麗な景色が見える目を持っていて、ありがたい。」
「こんな美しい音楽を聴ける耳を持っていて、ありがたい。」
「思うところに歩いていける脚があって、ありがたい。」
「私は何も指示しないのに心臓は動いてくれている、ありがたい。」

ありがたいと思えることはたくさんある。

人生とは、いのちを得ている自分のその歩みを、自分なりに歩むしかない、ということなのだ。






望まぬ結果

自分の望んでいない結果を生きている時、それを失敗と捉えていては、自分の成長は終わってしまう。(参考、升野俊明)
自分の望んだ通りに生きられている者など、この世にどれほどいるだろうか。ぐだぐだと愚痴ばかり言っていても始まらぬ。前を向いて歩くだけだ。
そのうち、これが自分の望んだ生き方か、などと考えることもなくなるだろう。そうすると、そこに失敗も成功もない生き方が生まれるはずだ。