それぞれの人生の道の歩み方

言うまでもなく、人の人生は百人百様だ。従って誰か著名人が、人生とは斯く生きるべしと言い切ったところで、その人はその時そう思っていたというに過ぎない。ましてや、抽象論では人生は生きられない。参考になる事があれば、何からでも参考にすれば良いというだけだ。

ところで人の人生は様々だが、生きる術というものはある。これは初等から高等教育までのどの過程でも学校では教えてくれない。(道徳教育は人としてこうある方が良いとは教えてくれるだろうが。)

では、生きる術を学ぶにはどうすれば良いか。文字を読める目があり、多少とも理解できる頭があるなら、自分にあった生きる術というものを自分で探し出す事だ。本を読んだり、ネットで読んだりでも学べるだろう。本などは読み漁るくらい読むべきだ。良いと思うものは繰り返し読むべきだ。なにせ、自分の人生を真剣に考えているなら尚更だ。

勿論、友人や身内に聞いて、生きる術を学ぶこともある。しかし、極めて個人的なこととなればどこまで話ができるか。また、どこまで理解してもらえるか。自分に合ったものは自分で探し出すのが最も良いということがある。
自分の周囲の同僚や他人からも学べる場合もある。誠実な人間からも、不誠実な人間からも学べる。

また、社会的に特定の境遇にある人は、過去或いは現在の、自分によく似た境遇の人がどのように生き抜いたのか、また、生きているのかを知ろうとするのも良い方法だ。これは、人生は人様々といっても、社会的に共通するところが、共通した生きづらさを共有するからだ。

社会的に特定の境遇にも色々ある。例えば、経済的困窮者、病人、各種の障害者、障害児をもつ親、高齢者、ひとり親家庭の親、日々親の介護に明け暮れている人、単身赴任者など様々にある。

これらの人たちの中には、社会的に自分たちでグループを作ったり、大きくは社会組織化を図って、生きる知恵を出し合ったり、支え合ったりしているところや、人たちもいる。以前に書いたpeople firstもそれだ。自立生活センターなどでは生きる術を教えるプログラムもある。

また今日では、ネットで同じ様な境遇の人を探し、ネット上で支え合う関係を作ることもあり得るだろう。(当然、社会には人を騙す人間もいるから用心がいる。)

ある種の人たちが社会的支援を必要とするとの認識の下では、然るべき福祉行政機関や福祉事業所、NPO団体などがその仲間関係の橋渡し役をする場合もある。また、直接的に暮らし方の支援もする。しかし、そうは言っても不信感がある人は、自身に関連する福祉行政機関や医療機関にまずは頼るべきだろう。こちらはとりあえずは電話でも可能な場合もある。近頃では、積極的に出向いてくる方法も、彼らは方法論的に理解し始めている(例によって輸入方法論だが)。
ここでも、福祉支援者とはいえ人間であるから、ピンからキリまでいることは知っていなければならない。福祉支援者には失礼だが、謙虚な御仁ならこの私見にご同意いただけるだろう。

さて一般的には、生きる術について、社会的人間関係の術としては、長い歴史の中で読み継がれているもの、論語は良いだろう。ただし如何に要領よく食っていくかの話はない。彼らはほぼ食っていけている者たちだったからだ。金は後からついてくるくらいの話はあるかもしれません。

人の道としての生きる術は、論語などのかつての中国(勿論今の中国ではない)古典に加えて各種の宗教関係、聖書や仏教経典・仏教書などは有用だ。ここでも勿論如何に要領よく食っていくかはありません。教えてくれるのは禁欲や清貧です。しかし、これは悪いことではない。

老子は、現実の社会関係からは少し身を引き離した形での考え方で、これはこれで有用でしょう。社会関係から少し身を引き離すこと自体が、堂々としたここでの生きる術と言えます。

その他、現在では沢山の生きる術を書いた本が、玉石混淆ある。これと思うところだけでも参考にすれば良いのです。(ただし、自身の根を養うのはまた別の話です。)

何れにしても、生きる術として、これだ、これでなければというものはありません。(私はこれを信じて生きる、という場合は人それぞれの自由です。)

それぞれの人生を如何に歩むか!

それぞれに、誠実に、勿論、力を入れたり、力を抜いたりしながら、自分なりにしっかりと歩んでいくしかないのですね。
自分のいのちを大切にしながら!