人生と運動会

瀬古浩爾さんの本の中に、人生を運動会の話と関連させて、次のように述べたところがある。少し端折って、載せます。

小学生のわたしは負けないようにと、走った。自分ではそんなことをする理由はなにもないのに、なんで一列に並ばされて競争しなければならないのか。なにもわからないまま、ただただ、言われたままに走ったのだが、あれほど必死になったことは、後にも先にもない。・・・・・
人生は、この駆けっこに似ている。誰に強いられたわけでもないのに、人生もまたなんの疑いもなく、生きるものだった。・・・運動会とのちがいは、人生には順番がつかないことである。つけようとする人もいるが、つけられるはずがない。わたしもつけない。

彼の言うように、人生には順番はつかない。しかし、それは、わかっているのだが、それでもやはりいつの間にか順番をつけようとしてしまうのが、大抵の人間だ。他人に対する順番付けならどうということはないが、自分に対して順番をつける場合は、これが高じると時としてとんでもなく厄介なことになる。その人は、人生をあくせくと生きることになる。自分を他人と比較して鞭打ったり、強い自己反省に陥ったりするだろう。時には良いが、しょっちゅうでは参ってしまうはずだ。挙げ句の果てには死んでしまうことだってある。

大抵の人間は、「人生には順番がつかない」ということをわかっている。しかし、その実、本当にはわかっていないのだ。
「なんで一列に並ばされて競争しなければならないのか」と思う以前から、そのような社会生活に入っているのだから、簡単に抜け出せるわけがない。

そこで年を経て、我が身を振り返って、なるほど確かに困ったものだという人は、お題目のように唱える癖をつけるといい。
「人生には順番などつかぬのだ」「自分の人生を、自分で、他人(ひと)の人生と比べるな」と。

坊さんたちが、なぜお経をたびたび唱えるのか?
実は、これも同じことなのだ。(たびたび唱える意味を忘れて唱えている坊さんが多いとは思うが。)
そこに書いている大切なことを、自分のなかに埋め込み、自分を変えるためなのだ。

自身の人生に対して大切だと思う言葉は、それを自分に言い聞かせるように、たびたび唱えること。そして、ただ唱えるだけでなく、そうやって、自分に言い聞かせること。

さらに、それでもダメなら、口で言うだけでなく、それをたびたび書くこと。
これらは、自分を変える極意のような方法だ。

自分をいつの間にか他人(周囲の人々)と比較して、悔いたり、責めたり、自己卑下したりしているなら、「自分の人生を他人(ひと)と比べるな」と思うがいい。
「人として、生かせていただいているだけでも、ありがたい。」
「こんな綺麗な景色が見える目を持っていて、ありがたい。」
「こんな美しい音楽を聴ける耳を持っていて、ありがたい。」
「思うところに歩いていける脚があって、ありがたい。」
「私は何も指示しないのに心臓は動いてくれている、ありがたい。」

ありがたいと思えることはたくさんある。

人生とは、いのちを得ている自分のその歩みを、自分なりに歩むしかない、ということなのだ。