自立と他力

自立という言葉は、細かく考えれば色々な意味が含まれます。例えば、普通すぐ出てくるのは経済的自立でしょうか。そして精神的な自立(自律)も考えられます。さらに細かく自立概念を分析して、あれこれの内容を加える人もいます。
しかしここでは、生きるということでの自立と、敢えて曖昧なままにしておきます。したがって、あれもこれも含めた、生きるうえでの自立です。
そして、この自立と他力との関係を考えてみます。
普通なら、「他力で自立」などおかしいだろう、ということになるのでしょうが、次のような表現もあります。五木寛之さんの考え方です。

自立の勇気をもたらしてくれる見えない力が、<他力>であり・・・
(五木寛之「他力」)

これは自我的な「私」の自立に対して、その大元となる大きな力の働きを認め、受け入れた姿を示すものと思います。
この大きな力とは、自我的な「私」を包み込み、尚且つその「私」に働きかけている力でしょう。
五木さんの先の引用に続く言葉は、次のものです。

「大きな宇宙の生命力である」

自身の自立を考える時、普通、他力を考えるのは、慎重であった方が良いように思います。何故なら、自力が早々に後退するかもしれないからです。私は、個人の力量差はあるとしても、自力の力(自力力)を養うことは大切だと思っています。
しかし、一方で大きな力の働きについても関心を持っておく必要があろうかと思います。大きな力の働きは、思索してわかるというよりも感覚でわかるものです。誰でもがわかるものだと思います。(でも、科学的であることに価値をおく現代的価値観に身を引かれれば拒否的になるのですが。)こうして自身のまさに生きている感覚から、大きな力を自分が自分に受け入れられると、どのようなことが起こるか。そこでは、自分ではやれるだけのことをやったという自己への信頼、そして、後はことに委ねるという考え方ができてくるのではと思います。
自力だけの考え方では、やるだけのことはやったが、もうだめだ、ともなりかねません。
自立的に生きるには、まずは自力に軸足をおきつつ、大きな力の働きもあることを認め、受け入れることが大切と思います。
なお補足ですが、ここに書いている「他力」は、もちろん他人の力のことではありません。また、五木さんは先の引用の後、「本願」という言葉を続け、「大きな宇宙の生命力である本願」という言葉を使っています。これは宗教的な意味も絡めてのことです。それから、大きな宇宙の生命力の働きとしての個の自立志向が考えらていますが、個を超えた大きな力の働きも考えられますので、私はそれも踏まえてここでは書いています。五木さんも、個を超えた大きな力についても考えておられるように思います。