寿命の終わり方

昨日、三島由紀夫さんの書いたものを引用して、自分のすべてをさらけ出そうとする行為について書いたな。

それを「無礼者だ」と、三島さんは言っておったのじゃった。

まあ、これはこれで、けっこう納得もするし、理解もする。

さて、ずっと時代は離れるのじゃが、良寛さんは死に際に、付き合っておった貞心尼さんに、こういう俳句をつぶやいたそうじゃ。
どうもこの俳句、借用物らしいのじゃが、そんなことはまあ、よい。


裏を見せ 表を見せて 散るもみぢ


下の世話までさせて、自分の裏も表も全部見せてしまった、と言うことらしい。

先の三島さんの「無礼者だ」という勢いからすると、なんとも、わびしいというか、さびしい、悲しいのう。

しかし、良寛さんは、そう長く下の世話をしてもらっていたわけでもあるまいから、現代のようなこともなかったろう。

いかに寿命を終えるかを考えると、もう少しかっこよく逝きたいものじゃが、なかなか難しそうじゃ。

そういえば、ある老婆が、このような命の終わり方をしたなあ。

そのばあ様は、自分の家のそばの畑の畝に倒れて亡くなっておったんじゃ。

つまり、一人で山のなかの家で暮らしておったんじゃが、

その日も畑に出て、そして、畑仕事をしているところで寿命がつきたのじゃろうな。

命の火が消える前に、あのばあ様が何を思ったか、誰も知らぬ。

何も思わなかったかも知れぬ。

たまたまその日やってきた身内の者が見つけたときには、すでの体は冷たくなっておったそうな。

まあ、身内のものは死に目に会えんかったと嘆いたかもしれん。
しかし、そんなことはどうでもよい。それは生きている者のことだからのお。
死ぬものは、一人、死んでいくのだからのお。

あのばあ様は、下の世話を人にしてもらったりはせんかった。
ああいう命の終わり方はどうじゃろうか。

私の夢と言えば、これも一つの夢かもしれん。
(長い独り言になってしまったわい。財産のある者は、財産分与がどうのこうのなどと言われるとたいへんじゃろうのう。)