自分の真実の姿とその告白

自分の真実の姿というのは、清いものなのでしょうか、それども、醜いものなのでしょうか。
そして、自分の真実のままを好きになってもらおうとすることは、どういうことになるのでしょうか。

三島由紀夫が、次のように書いているところがあります。

なるほどなあ、と思います。

「どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿を認めてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。
 というのは、どんな人間でも、その真実の姿などというものは、不気味で、愛することの決してできないものだからです。これにはおそらく、ほとんど一つの例外もありません。どんな無邪気な美しい少女でも、その中にひそんでいる人間の真実の相を見たら、愛することなんかできなくなる。・・・」

要するに、何もかも告白してしまうな、そして、その何もかもの自分を好きになってもらおうなんてしないでくれ! と、こう言っているのです。

「あいつは、いい人だ」「あなたは、魅力的だ」と思われているなら、そのままでいいのだ。
それをあえて、すべてをさらけ出して、愛してもらおうなんてするな、と言っているのです。

そういう者は、無礼者で、傲慢だ、と彼は言っています。

そして、「人間が真実の相において愛することができるのは、自分自身だけなのであります。」と言います。

してみると、彼あるいは彼女のすべてを愛することができれば、と考えるのも、彼に言わせれば、傲慢な考えになるのでしょう。

人間には、本音や建前や偽善や虚偽があって当たり前なのだ、と言ったことも書いています。
「私」という存在は、神ではないのですから、まさに、そうなのでしょうね。
三島由紀夫『不道徳教育講座』から引きましたが、面白いので、ちょくちょくここに書くかもしれません。)