後悔という病

後悔先に立たずと言う。

「後で悔いても取り返しがつかない」ということだが、だからといって処理すべきものはやはりそれなりに事後でも、いや事後であるからこそ、しっかりと処理しなければならない。
仕事の上のことなどは、まさにそうだろう。

一方、心の方で考えると、悔いる心は大切だが、そこに囚われていては、先に進むことができなくなる。
それまで自然に歩んでいた自身の足が、意図をもってしても、前に踏み出せなくなったりもする。

王陽明は、次のように言っている。


悔悟は病を除く薬にはちがいないが、しかしここで大事なのは(過ち)を改めるということだ。もし悔いにとらわれているだけであると、その薬がもとになって別の病がおこる。
王陽明溝口雄三訳)『伝習録』上巻)


悔悟は、「悔い悟る」ということだが、ここでは後悔と理解しても良いだろう。
何も悟るなどと仰山に考えることはない。

これからはきっと気をつける、と肝に銘じてやっていけばよいのだ。
それでこそ悔いる意味も出てこよう。

悔いる心があるからこそ、自身に成長があるのだ。
ああ、また一つ俺は成長した、そして、成長するのだと思えばよい。

そう思ったときに、自然と自分の足は、再び歩み始めている。

因みに、王陽明が「改める」と言っているのは、当然ながら「事を改める」ということではない。
「己を改める」ということである。
己を改めるから成長するのであり、己を改めるから事に対して正しく対処するようになるのである。従って、為されることも改まるのである。