仁について考える

「仁」という字は、人の名によく使われている。
といっても、最近の人の名にはあまり使われない。
それは、おそらく、戦後の占領政策によって、教育の改変が行われ、人の道を教えることがあいまいにされてきた一つの結果だろう。

現在、「仁」という語の字義を知る人は、どの世代以降の人たちになっているだろうか。

漢字そのものの成り立ちや字義の教育の不十分さ、また、暗記重視の教育の結果として、加えて安直な平等主義教育によって、読みにくい地名などは平仮名に変えてしまおうなどと安易に考える政治家や研究者・教育者たちが現われてきたのだろうが、こうした者たちの行動の影響は、文化や歴史の根幹を考える力を持たない人たちをいっそう生むことになっているのである。

広く漢字の話はさておき、「仁」については、漢字の生まれた国において二千数百年以上前に誕生しており、それが今も我が国で用いられているのであるから、たいへん古く、長く生き延びている文字なのである。

おそらくは我が国においては、儒教が入ってきた紀元後300年代頃より、この文字が使われ始めたのだろうが、そこから考えても、長く生きながらえてきているのである。
そしてその理由は、我が国の人たちがその心に、儒教的精神を吸収し、血肉化させてきたからであるといっても、過言ではないだろう。

しかし、この数十年を考えれば、まさに戦後の占領政策に始まる教育改革の成果の一部が悪果として結実し、国家づくり、社会づくりにその問題をあらわにしている状況にあって、こういう言葉(仁)が初頭・中等教育に従事する教員たちからも知られなくなってきているのは、残念というよりも、社会の退廃を案ずると言わなければならない。

「仁」という字のなりたちは、二人の人にあるとされる。二人とは、我と人である。さらにこの字の字義に「親」がある。この「親」とは、「親しむ」の謂いである。
また、「仁」のさらに古い文字は「千」の下に「心」と書くともいわれる。その文字の意味するところは、「衆多の人々何れもこの心を有する」という。
(参考;山口察常『仁の研究』)

さて、文字の成り立ちや字義についてはここまでとして、「仁」について、熊沢蕃山は仏教の慈悲との違いのなかで、次のように説明している。

仁は天地が物を生育される根本の生(性)理である。人間の場合には心の徳である。無欲無我であって、万物を一体と考える。その立場に立てば、物を憐れみ施し救うことは、無心自然の働きである。わざわざこしらえてする行為ではない。(熊澤蕃山『集義外書 巻四』)

性理とは、すでに備え持ったものの謂いである。
人が困難な目にあっているのを知って、心が落ち着かなくなるのも、無欲無我の心である。
仁は、天地の理であり、人もまたそれを有し、それは、換言すれば、心の徳ということになる。

仁という言葉の大切さを、「人生を生きる」ということに関していえば、

わが生を生くるに、己が有する「仁」を己が「生」に働かせることである。そしてそれが人の道であり、人の道を生むものである、ということができる。
私というものを十全に機能させて生きることは、あらゆるものを生かす道でもある。
そこに、「仁」がある。