実際の「私」を知らねば

夏の終わりに、庭の隅にほんのちょっと野菜になるものを気まぐれで植えました。

ある日、窓から見ていると、モンシロチョウがやってきて、葉っぱの周りを飛び交っています。
そして、「おっ、 モンシロチョウがきとるな~。」と、
だた、そのときは思っただけでした。

翌日、なんとはなしに、その野菜の葉を見ると、黄色い小さなものがいっぱいついているではないですか。

よく見るとモンシロチョウの卵だ。

たいした葉っぱも育っていないその野菜に、こんなにたくさんの卵がかえったらと想像すると、「う~ん、壊滅的じゃあ~!」とあわてました。

それで、私はどうしたか。

その野菜の葉っぱから、丹念に卵を取り除きました。

もし私が、いつか、どこかで、「命あるものはみな尊い」などと言ったとしたら、
あとで、
「しかし、何十匹ものモンシロチョウの子供の命を、私は奪いました」と告白もしなければいけないでしょう。
(きっと、場がしらけるでしょうね。)

つくづく、「私」という人間について、「いい加減だなあ~」と、命を奪いながら思ったのでした。

権利、権利と言いながら、あるいは、権利の大切さなどと説きながら、責任ある自己の生き方には目をつむる者が多いのも、同じようなことでしょうか。
(嫌いなんですけどねえ、こういうの。)