忠恕の心を育てる

人権擁護とか人権侵害という言葉がある。

巷の人たちが、これらを知ったような、立派なことを言っている。

あるいは、ご立派そうな大学の先生様たちが、これらについて物知り顔で、いろいろ説明してくれたりする。

そうしたことを聞いた人が、皆、うん、うんと頷き、さもえらくなった風で、十代前後の子どもたちや青年たちに、再び、受け売りで教えている。青年たちは、さも知ったような顔をして、また他人(ひと)に言い、親に言う。

しかし、日常の生活のなかで、どこからどこまでが人権侵害なのか、またそうでないのか、誰が知っているのだろうか。

時には、お前は人権侵害をしたとののしられる者がいる。

ののしる者が多くなれば、その者たちの言うことが正しくなる。


知ったような言葉を使って、知ったようになってはいけない。


人皆人に忍びざるの心あり。(孟子

人間には、誰しも、見るに忍びない、するに忍びない、という思いやりの心があるのだ。

それは、忠恕(ちゅうじょ)の心と言われる。その心が治国の根本であるとも言われる。

忠恕の心は、人にあるとはいえ、それは種としてあるに過ぎない。

その種を腐らさぬようにし、また、種のままでおわらさぬよう、育てなければならない。

人権教育と言うが、日々の暮らしの中で大切に育てなければならないのは、この、人を思いやる心なのだ。


何が人権の侵害にあたるかは、暮らしの場とは異なる、法廷の場で、明らかにされるべきものにすぎない。