自分の考えを持つ難しさ

「自分自身の考え」を持つというのは、そう簡単ではありません。

歴史をさかのぼって考えてみても、多くの人が「自分自身の考え」を持つようになったのはそう遠い昔のことではないでしょう。

かつて人は、慣習に埋没して生きていました。

当時の人に、「自分の考えは?」と問うても、その問い自体がわからなかったでしょう。


ここでいう「自分自身の考え」とは、ある事柄についての選択や善し悪しなどについての自分自身の考えに基づく判断といってよいでしょう。

これは、「私は、このことについて、こう思う。なぜなら、私は、それを○○と考えるからだ」、といったものです。

さて、慣習の中に埋没して生きていた昔の人と比べて、多くの現代人は教育と文化の発展した社会に生き、慣習と自身の選択行動を区別する見方も手に入れています。とすると、現代人は、みな「自分自身の考え」を持っているかのように思えます。しかし、どうでしょうか。

情報量が多い社会で、なおかつその多い情報がともすると一方的に自身に向かって流れ込んでくるような状況では、しっかりしていないと、自分の考えなのかどうかよくわからないままに判断するということが起こってくるのです。

それを恐れる人の中には、自分のところに入ってくる情報量を自ら制限する人もいます。

過剰な情報社会に生きることは、「自分自身の考え」を持つことを難しくさせてしまうのです。

そして、そのことゆえに、「自分自身の考え」をもたずに行動する人たちも、増えてくるのです。また、自身の選択行動が、「自分自身の考え」によるものなのか、ある種の情報に埋没した行動なのかがわからずに、苦悩する人たちもでてきます。

今、私たちは、「自分自身の考えを持つ」教育や学習が、強く求められる社会に生きていると言えます。