逃げを打つ

逃げを打つ、という言葉がある。

責任などを逃れようとして、あらかじめ、手立てをしておくことだ。まあ、逃げ支度の手立てをしておくこと、とも言える。

卑劣な行為と思うかもしれない。

嫌いな行為だと言う人がいるかもしれない。

しかし、この行為は、複雑な社会関係・組織的人間関係のなかで生きる人間の知恵としておのずと生み出されているものだ。

もちろん誰しもが知っているわけでもない。

誰しもが、それをするというわけでもない。

そういう行為方法を使うかどうかも、その人しだいだ。

そして、知らない人は使えないか、あるいは、うまく使えないというのも事実だ。

また、そういう行為方法があるということを知っていることで、自身の内に自然に生まれてきたその方法を自己内の単純な道義的良し悪しで、殺してしまうことも少ないだろう。

前にしか進めない者より、後ろにも進めることを知っている者の方が賢いのと同じように、知っていることは知らないことより、よいことなのだ。

また、知っている者と知っていない者が居合わせたときには、知っている者の方に、その点において、強みがあることも事実として言えることなのだ。

道徳的、道義的善良さを欲する人であっても、逃げを打つという行為があることを、知っておくと良いだろう。


前にも書いたが、現象に良い悪いなどの視点をもって議論することと、その現象があるかないかという議論は別だということも知っておくように。