男たち(のふがいなさ)

最近、熟年離婚という言葉をよく耳にする。
テレビドラマで、そうしたタイトルのものがあったようだが、はやり言葉のようでもある。

年金を分け合うような手続きも可能になるとかで、テレビや新聞、雑誌などでもそうした話題が取り上げられ、女性の関心度が高いとか・・・。本当かどうかわからないが、もっぱらTVから耳に入ってくる。

亭主が退職するのを機にとか、年金が手に入るようになるのを機にとか、
まことにもって情けない話だ。(そういえば、亭主が退職金を手にするのを待って離婚という話は、数十年前にもあった。)

男からすると、そういう女房は、とっととおっぽり出しちゃいなさい、と言いたい。

そのためには、女に頼らねば生きられない生活を、日ごろからしているようではいけないのだ。

男だって家事ができなければならない、洗濯だってできなければならない。
自分の被服管理ができなければならない。
生活用品の買い物もできなければならない。
当然、食事は自分でつくれなけらばならないのだ。
(できるけれども、しないというなら、それはそれで差し支えはない!女房の機嫌をあまりそこなわなければ、なおよい。)

男が主たる家計の担い手であっても、そこにあぐらをかいていてはいけない。
いつだって、俺は一人でも生きていけるんだという気概を持って、しかも、それができる男であるべきなのだ。

「いやなら、いつだって、出て行きな!」くらい、女房に言えたったいいではないか。

もっとも、女も女だ!

男たちは、家族のために、たとえ辞めたいようなことがあっても、我慢をして一生懸命働いて、たまの休みには家でごろごろしたり、自分の好きなことをしていて、なにが悪い!
ごろごろしているからといって、家事を手伝えとか料理をしろとか言う方がひどい話なのだ。

退職をして、ようやくのんびりと生活ができると思っていたら、家でごろごろしているなどと言われて、男として悔しいではないか。
のんびりしたければ、のんびりしてもよいのだ。
それまで、30年も、40年も、あるいはそれ以上も、けっこうたいへんな思いをしながら働いてきたのだ。そして、家族を養ってきたのだ。
ということであれば、堂々とごろごろしてよいではないか。
それを、とやかくいう女房の方がどうかしているのだ。

とやかく言われて、ばつが悪そうに、こそこそしていたり、へらへらと、ごもっともですというようなことを言うようでは、女房に捨てられても仕方があるまい。

男たちよ!
家族のことを思い、苦労をしながら働いてきたという自負があるなら、
金を手にして、どっかへ行きたいという女房など、さっさと蹴っ飛ばしてしまいなさい。

そう言えるためにも、いつでも自立した生活ができるだけの生活技術を、男は持っていなければならないのだ。
(上げ膳、据え膳で、女房に甘えている者は自立能力を失っていくのだから、まだこれからの方は、十分ご注意を!)


お断りをしておくが、女房に養ってもらっているような、あるいはもともと家族を省みないような男は、ここで言っている男ではないからね。もっとも、家族を省みたくてもそれすらできないような仕事をしている男たちもいるのだから、そのことはよく理解しておかなくてはいけない。また、夫婦のどちらもが同じ程度に家計を担ってきたという場合も、ちょっと別の話になるからね。


私は熟年離婚など、おろかなことだと思っている。
互いが支えあって、家庭を築いてきたのだという思いや、そのような夫婦の関係ができていれば、熟年での離婚などそうそう起こるまい。
お互いが好き合っているというだけで、家庭が築けるわけはないのだ。
互いに努力をしていくことで、家庭は築けていくのだ。

テレビの中の無責任な連中の言葉を鵜呑みにしてはいけないのだよ!