世間との生き方

世間との生き方、あるいは世間での生き方、あるいは世間に対する生き方

まあ、いろいろ考えられるのだけれど、
世間との関係で言えば、ここにはいろいろな生き方がある。

世間(社会)を何とかしようとする人がいる。
それを生活そのものにしようとする人は、政治家になるのかもしれない。
こういう政治家はまだよいほうで、実は権力志向で、本人もそのことをろくに自覚しないまま政治家の道を歩む者がいるので、こういうのは困る。

こういう輩は、能力はないのに、権威性あるいは権力を手にする者たちである。
(しかし、世間自体が、こういう御仁を作り出すからややこしい。)

社会活動をして、世間(社会)を変えようとする人もいる。
専門家が、社会あるいは世間を変えようと行動(運動)する人もいる。
あるいは、当初、専門的な能力や技術を持っていない人が、熱心な思いで、社会あるいは世間に働きかける人がいる。

また、これと反対の極の方には、ひたすら世間との距離をとって生きようとする人がいる。
こちらの場合は、世間あるいは社会の問題に気づいて、これを変えるというよりも、そうした世間(社会)から身を守るべく、距離を置いて生きようとする人である。

そして、多くの人はその両極の間にある生き方をしている。
そして、その多くは、世間への埋没的生き方をする。
いわば、流される生き方である。

どのような生き方を選ぼうと、その人の自由である。
しかし、知性のある者は、自覚的な生き方をするにちがいない。

また、
どちらの極に近い人も、他の人たちを強引に引っ張ろうとするのはよいとは思えない。
しかし、世間を変えようとする人たちは、他の人たちを変えようとする人たちなので、
どうしても強引気味になる。

それでも、この人たちも、他の極にいる人たちを尊敬することにもなる。

人というのは、世間での一方の極へ行ってしまえば、世間からうとまれるか、尊敬されるかなのである。

さて、さて、それではどのような生き方をいたしましょうか。
(もっとも、こういう生き方をしようと言って、そのようにしっかりとは生きられぬのが人生なのでござりまするが・・・。)