生きていることと「テンポ」

人には、生きるのに適切なテンポというものがあるのではあるまいか。

たとえば、昭和30年代から40年代ころ、
高度経済成長期と呼ばれたころだが、
それなりにテンポよく人は生きていた。

この時期は、今よりも経済の発展が肌でわかるような状況ではなかっただろうか。
そういう意味で、それなりに速いテンポではあったはずである。

しかし、現在の方が、生きるテンポというか、生かされるテンポが速いように思えるのだ。

たとえば、酒造りだかにモーツアルトの曲のようなクラシックを聞かせるという話がある。
こういうのも、生命体にふさわしいテンポというものがあるという、1つの証左ではないか。

生命体が新陳代謝をしていくのに呼応するテンポであったり、細胞変化のテンポであったりと、生命体としての生きるに適切なテンポというものがあるのではないだろうか。

1960年ころの多くの音楽のテンポなどは、高度経済成長期でありながら、それでも体にしっくりするテンポのように思えるのだ。

適切でない速いテンポは、人間固体の生物体的諸機能と精神機能との歪を大きくし、人間固体を混乱状況に陥らせるように思える。

一時的にテンポを上げていくと恍惚状況をもたらすのだろうが、継続的にテンポの速いものに触れていると、おかしな行動を引き起こす者も現れるように思えるのだ。

音楽のリズムにしても、流行っているからということではなく、健康上ふさわしいと思えるテンポのものを選択して聴くのがよいはずだ。