絶望と人生の歩み方

「立身出世と競争社会だけがすべてと思って生命を賭けても、それは無常、空に裏打ちされた架空の幻想であることを絶えず知っていなければならない。人間の一切の営為(いとなみ)のなんと空しいものであることを腹の底に置いて置かなければならない」
「かくして生きれば、人生が上手くゆかなくなった時、絶望して自殺することもない」し、「『世間の苦を観じて生死を悪(にく)まず』とあるように、どんなに苦しくとも自らの人生を自らの手で否定することはないのである。」
「また逆に初めからこの営為(いとなみ)の人生を否定し、この人生から逃避することも本当の生き方であり得ない。ニヒリストの生きる道は現実の放棄である。現実の社会と人生から逃避して、人は何のために生きていることになるのか。現実は汚濁にまみれているが、それをすべて捨て去る時、その人の人生もまた虚無の晦冥(かいめい)の中に消え去らねばならない。」
(鎌田茂雄『維摩経講話』)

逃避か浸かり込むかということでは、自身があまりに極端に行ってはいけません。あるいは極端に入り込んではいけません。(しかし、そこにはまり込んで、そして、そこから抜け出ることで、一段上の展開が開ける場合があることも事実だと思いますが、安易に勧められるものではないでしょう。)

いずれの極にも、待ち受けるものは絶望であり、自死(あるいはその極まりない危険)であろうと思います。

しかし、その両極の幅の広きことを知っていることは大切です。
そして、自身はその幅の中のいかなる所をもっぱら生きるのか。
それを生きるのは、自分自身です。

そしてまた、いかように生きても、ここでは「人生の営為は空しい」と言っているのです。

しかし、もちろん、「であるがゆえに」と「いかに生きるか」は続かねばなりません。