知を肥やし、知を使い、自身も人も軽薄にする

物が砕かれ、さらに細分化されてゆき、心の分裂がいっそう激しく深まってゆく。
それが人間の認識と呼ばれるものの高度化の実態である。
より多く、より深く、より正確に知るという意味は、物心の深刻な分裂以外の何ものでもない。
福岡正信『無 Ⅱ「無の哲学」』)

人間が軽薄になってゆく。
その点では、学のありそうな人も、なさそうな人も、皆同じです。

ただ、学のありそうな人は、学のなさそうな人を引っ張っていきますから、少々悪い人のように思えます。

こうして、皆どこかに虚しさを抱えながら生きてゆくのです。
にぎやかにしつつも、虚しさを消すことはできません。

細分化した挙句に、賢くなったと錯覚し、得体の知れぬ虚しさを抱えて、人知れず寂しさを紛らすのです。
いったい自身がどこへ行こうとしているのかもわからずに。
ただ、知による細分化の道を歩んでいくのです。

しかし、細分化などと言ってわかる人は、そういないのかもしれません。

要は、自分を薄っぺらなものにしていっているのです。
それは、自分が「物」になっていくようなものなのです。

そこに得体の知れぬ寂しさが出てくるのです。

その得体の知れぬ寂しさこそが、道の誤りを教えているのに、ただ寂しさを紛らす程度でいのちの時間を過ごしていくのです。

その手に掴むべきものは何か。
自身が手放していったものは何か。
知らねばなりません。