自分本位と調和的生き方、農と自然

一つの作物を育てると考えたとき、一つのものを育てようとして集中した心(愛)は、当然周囲のものを除去せねばならない心(憎)をも発生せしめている・・・(福岡正信、無(Ⅲ)自然農法)

これは、人間が他者に対して、また、他の物に対してとる行動のすべてに言えることだ。そして、そればかりか、自身に対してとる行動についても言えることだ。

自己所有的なものから離れれば離れるほど、また、自他不分別へと向かえば向かうほど、本当の愛に近づくことができる。

もちろん、そうなろうなどと大それたことを考える必要はない。生きている以上、そうなれないと考えていても良い。

しかし、そこへ近づこうとする生き方は、常に大切だ。

なぜなら、そこには個としての価値観を超えるものがあり、人間本位の価値観を越えるものがあるからだ。
そして、私という個も、また、人間も、それを超えたものによって生かされているからだ。
そして、私たちの誰もが、そのことを知っているからだ。


これらを、百姓と雑草との関係で言えば、次のようになる。

百姓が作物を愛して(虚偽の愛)育てようとしたときから、百姓は雑草を雑草と考えて憎しみ、これを除こうとして苦労を重ねるようになるのである。もともと、雑草が生えてくるのが自然であるから、雑草の種は尽きることなく、これを除こうとする人間の苦労の種も尽きなくなるのは当然であろう。(福岡正信、同書)

雑草の中に埋もれよとまで言わなくともよい。また、自分を消し去ろうなどと大それたことを考えずとも良い。
うまく調和点を見いだそうとすればよいのだ。