暮らしの姿勢

ここでいう「暮らしの姿勢」とは、日々を「生きる姿勢」のことだ。


学道の人はただ明日を期することなかれ。今日今時ばかり行じて行くべきなり。(正法眼蔵随聞記巻の五より)


本来のものは「・・・仏に随って行じて行くべきなり」となっているが、ここではそれは除いた。

日々放心無きように、ということもよく似たことである。

「学道」の意味は、いまどき世間一般に考えているものとはまったく異なる。ごく普通に考えればよい。
つまり「道を学ぶ」ということだ。

しかし、それはまた、「学ぶ」をいまどきのように考えてはならない。
「自身が成って行く」ということだ。

「明日を期する」などというのは初学者だが、「今日今時ばかり行じて行くべきなり」というのがなかなか難しい。

「日々に」くらいは何とかできそうなのだが、いつの間にか次第次第に世間一般の価値観に戻ってしまっており、それで生きているようになるのが常である。

ましてや、「今このとき」となれば、たいへん難しい。

それでも、自分のことなのだから、自分を本当にだいじに生きようとすれば、それができてよいはずだ。
しかし、なかなかにそれができない。
できていないとなれば、それは自分がそれほどには、
自分というものを大切に生きていない証左なのだ。

自身をなんとか大切にしようとするなら、「今このとき」、そしてまた「今このとき」と為すべきである。

しかし、それが日々の生活に追われてでき兼ねるのなら、せめて、「日々に」でもできなければならない。

「今時」にしろ「今日」にしろ、
秘訣は、「そこに返る」ために、そのための某かのことをすることだ。