生きている根拠

この世は確かに「苦」であり「無常」であろう。つくり出された根拠は脆(もろ)いに違いない。だからこそ、私たちはそれをつくり続けなければならない。(南直哉『語る禅僧』)

「私たち」を「私」とするともっとその内容を自分に引き寄せられます。

「根拠」は生きている根拠と理解してもよいでしょう。
「つくり出し続け」るというのは、そのように生きるということです。
しかし、根拠をつくるために生きるというよりも、生きることがその根拠なのだ、でもよいでしょう。
ああでもない、こうでもない。むしろ、こうではないか、などと考え始めたら、あまり、ぐだぐだと考えるな、「しっかり生きよ」でよいのでしょう。