人の世界と神仏の世界
人というのは弱い存在ですから、
というよりも、人は時にたいへん弱くなることがあるので、
それで、神仏の世界に近づき過ぎたりもいたします。
結果、非社会的ならまだよいですが、反社会的となったりもいたします。
非社会的ならまだよいといっても、それでも「非ず」ですから、「ご当人はともかくも」ということになったりもいたします。
「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」とは、孔子の言とされる言葉です。
これは、人として行うべきことを行い務め、超人間的な神は敬いつつも、その世界とは距離を保つことを言っています。
拒むのではなく、敬することを失わないこと、それでいてあまり近づき過ぎないようにすること。
人として生きる以上、なるほどと思わされます。
しかし、実は、たいていの誰しもが、通常、そのように生きているのです。
ただ、弱くなった時には、気をつけなければなりません。
それは、人として、自身の人生を、まさに我がものとして、しっかりと主体的に生きることが、弱ってくるからです。
神仏を敬するが、しかし、人としてしっかり生きていく、これこそ人としての生き方というものでしょう。
宮本武蔵は、次のようにいっています。
「神仏を尊(とうと)み、神仏を頼まず」
この己を磨ききろうとした人ですら、神仏を尊ぶことを失わない。そして、それでいて、常に自身でありつづけようとする。
それはあくまでも、人間が人間たらんとして、自身を人として磨いて生きる姿であります。
大それた人間でなくとも、いや、大それた人間でないが故に、
このような先人の言葉、
学ぶこと大といわねばなりません。
というよりも、人は時にたいへん弱くなることがあるので、
それで、神仏の世界に近づき過ぎたりもいたします。
結果、非社会的ならまだよいですが、反社会的となったりもいたします。
非社会的ならまだよいといっても、それでも「非ず」ですから、「ご当人はともかくも」ということになったりもいたします。
「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」とは、孔子の言とされる言葉です。
これは、人として行うべきことを行い務め、超人間的な神は敬いつつも、その世界とは距離を保つことを言っています。
拒むのではなく、敬することを失わないこと、それでいてあまり近づき過ぎないようにすること。
人として生きる以上、なるほどと思わされます。
しかし、実は、たいていの誰しもが、通常、そのように生きているのです。
ただ、弱くなった時には、気をつけなければなりません。
それは、人として、自身の人生を、まさに我がものとして、しっかりと主体的に生きることが、弱ってくるからです。
神仏を敬するが、しかし、人としてしっかり生きていく、これこそ人としての生き方というものでしょう。
宮本武蔵は、次のようにいっています。
「神仏を尊(とうと)み、神仏を頼まず」
この己を磨ききろうとした人ですら、神仏を尊ぶことを失わない。そして、それでいて、常に自身でありつづけようとする。
それはあくまでも、人間が人間たらんとして、自身を人として磨いて生きる姿であります。
大それた人間でなくとも、いや、大それた人間でないが故に、
このような先人の言葉、
学ぶこと大といわねばなりません。