こころの内奥に

こころの内奥、すなわちこころの奥の奥のところに何があると見るか。

そこに、性欲的エネルギーの源泉たるリビドーなるものを見た、歴史に残る人もいます。

一方、同じ西欧人で、こころの内奥の、その深遠なるところに、大いなる自己を見た人もいます。その大いなる自己は、「神」でもあり、「大いなる私」でもあります。
その彼の研究は、原始キリスト教とともに、さらには必然的に、東洋思想にも及びます。

こころの内奥に何を見るか。

さて、この先は我が日本での話です。

それは、前述の彼らから遡ること三百年近く前の、千六百年代前期の話です。

ここに、二人の人物があり、その歌があります。


みな人のまゐる社は月なれや こころのすまば神や宿らん(中江藤樹

みな人のまゐる社に神はなし 心のそこに神やまします(熊澤蕃山)


中江藤樹は、近江聖人といわれた人です。
この藤樹の歌は、熊澤蕃山が教えを得たいと希(こいねが)い、その入門時に藤樹が詠んだ歌とされます。

藤樹の詠った「社」は、外在する物でありますが、外在するということに囚われるべきではないでしょう。そして、「社」と「こころ」との区別はあいまいと見なければなりません。「月」は、日々に生きるに何が善かと分からぬ暗がりを照らすものです。「すまば」というのは「住まば」とも「澄まば」とも理解できます。そして、神が宿るところを示しています。

蕃山の歌の「社」は、より外在する物として理解すべきでしょう。そして、人々が参って、手を合わせる
「社」には神はいないと言います。「社」に向って手を合わせているその人のこころに、神はおわしますと言っています。「心のそこ」の「そこ」とは、どこと考えるのがよいでしょう。

こころの内奥にもって行ってしまっているのは、ほかならぬ「私」自身かもしれません。

ここで私たちは、「神」とは何ぞやと概念規定をしようとするこころに振り回されないようにしなければなりません。

そして、これらの歌が、私たちのこころに難しい理屈抜きで入ってくるならば、私たち(のこころ)は正にその通りなのでしょう。