自分を成長させる

ここで「成長させる」というのは、もちろん自分を人間的に成長させるということです。

その作業は、自分が死ぬまで続けることができます。

金が十分になくとも、病の身であろうとも、若くとも、老齢であろうとも、仕事が忙しくとも、その作業は生きている限り続けられることです。

人として生まれて、自ずと自らを省みる性質を備えもつことが、そもそも自身をどこまでも成長させようとする存在であることを示しています。

西郷南洲は次のようにいっているそうです。
「人が聖人たらんとする志なく、古人の事蹟を見て到底及ばずとして諦めるのは、戦場に臨んで逃亡するよりも更に卑怯である。」

「志」とは、現代においてよく考えられる、自身の外部に対して、求めるものを強く思うことではありません。

自身が少しでも成長しようとする確固たる思いのことです。

「聖人たらん」とは、現代風に言えば、人間として立派な人に成ろう、より成長した人に成ろうとする考えでよいでしょう。

その成長は、人と比較する必要はありません。

昨日の自分、一昨日の自分、ひと月前の自分、一年前、数年前の自分と考えてよいでしょう。

その成長とは、もっと自分らしい自分、自分らしい生を生きる、自分を生ききるということでもありましょう。

「古人の事蹟」などは、今や学ぶ機会はほとんどなくなりました。これは残念なことですが、然らば自ら学べばよいことです。

学ぶ機会がないからと言って諦めるのであれば、やはり西郷さんは言うでしょう。

「この卑怯者めが」と。