一生を生きる

とかく人間というものは、自然の悪意に苦々しげな不満を漏らすものですね。
短い一生に生まれつくうえ、そのわずかな持ち時間さえ瞬く間に過ぎていく、自然とはなんと意地の悪いものか、と。
ほぼ例外なく誰もが、まさに生きようとしているそのときに、人生のほうから見放されたと気づくのです。
(cf:セネカ『人生の短さについて』)

二千年程前の人が考えたことです。

今の私たちの一生は、ある人にとっては短いものとなったり、また、ある人にとってはよく生きたといえるものであったりします。
あるいは、死ぬべき生命が生かされ続けるということもあるのかもしれません。

しかし、どう考えられようと、
わが生を生きるに、人生のほうから見放されたと思うことのない生き方をすべきに違いありません。

「私」というものは、己がいのちも、他人(ひと)のいのちも、あらゆるもののいのちをも含めて生きています。

無駄に生きるわけにはいきません。