忙しさのなかで失われる

高度情報化社会の恩恵はまことに大きい。しかし、終末の予兆をおもわせる社会現象があいつぐなかで、我々は快適さの代償として、他事多忙に追われ、何が人間としてもっとも大切であるのかをつい忘れ(させられ)てしまう。生きながら死んでいる。そのことの自覚すらない。生死一如とはもともとこうではなかったはずである。現代は「すてること」(放下)の困難な時代であるが、「このこと」以外のものはいっそ勇気をもってすててみてはどうだろうか。(吉田公平『伝習録』(文庫版序論))

これ以外のものを棄てるというのはなかなか大胆なことである。
より容易なのは、あまり受け取らないように、あまり入ってこないようにすることである。
そうしているうちに、いらぬものを棄てていっている自身に気づくだろう。

あわただしい時代である。そういう風潮に巻き込まれていると、のんびりとできる時間があっても、何かせねばならないような気になり、また、そういう気にさせられる。
自ら忙しなさを求めている自分があることに、ふと気がついたりもする。

そういうときというのは、自身の大切なものから、本当の自分というものから、あるいは自身の本当のところから、離れて生きているときなのかもしれない。

本当のところには、生死の一如があるだろう。

生きているのに死んでいる、などという生き方は、真っ平御免こうむりたいではないか。

これでは、ただ生きているだけではないか、などという生き方は、真っ平御免こうむりたいではないか。


「何が人間としてもっとも大切であるか」

内外の無い自身にあって、内にあっては、こころを清澄にして、内奥より出づるものを、自身にしみわたらせることである。

内外の無い自身にあって、外にあっては、花鳥風月とこころを通わせ、一にすることである。

内外ともに、自身に執着せぬことである。