物として生きない

心、太虚に帰して、然る後に実理始めて存す。太虚に帰せざれば、則ち実理埋没し了(おわ)つて物と異ならず、夫れ人にして物と異ならざるは、恥ずべきの甚だしきものなり。
(大塩中斎『洗心洞箚記』)

実理は、もちろん実利ではありません。
実は、真実です。
理は、道理です。筋道です。
太虚は、奥深きところのものです。しかし内に深く在るかと思えば、外には遥かに在るものです。時間にはやはり遥かに在るものです。しかし、今、ここに在るものでもあります。「私」に在るものでもあります。つかみどころがありませんが、しかし在るものです。だから大いなるものです。しかし、形の定まらぬものです。しかし、私たちはそれを知っています。

物として生きるは甚だ恥ずべきこと、それは、情けないこと、悲しむべきこと。

これは、人に恥じるのではありません。

では、誰に、何ものに恥じるのか。

現代の私たちの多くは、それを学んでいません。

再び、学ばなければなりません。