広大なる心のなかで

険夷もと胸中に滞らず
何ぞ異ならん浮雲の大空を過ぐるに
夜は静かなり海涛三万里
月明錫を飛ばして天風を下る
王陽明

この詩について、次のような理解があります。
「人には難儀な逆境と幸福な順境と、この二つがしじゅう替わりあってくるものでありますから、来るままにこれを扱えばよろしい。昨日の辛酸が今日に残り、今日の嬉しさが明日にさし響くように、胸中に滞(のこ)るべきものではありません。それはあたかも浮雲が大空を通り過ぐるのとなんの相違もありません。雲が空を流れて通るが、空はもとの空でなんの変化も受けません。そのごとく、難儀幸福(しあわせ)が人の身の上に代わりあって訪うて来るが胸の中はもとの胸の中で、なんの変わりもあってはなりません。ごらんなさい、夜はしんしんとして、なんの響も聞こえません。大海原は見わたすかぎり三万里、波は静かにうねって、なんの区別も隔てもありません。月は明らかに照りわたって、一点の曇りも見えません。そこへ人が錫杖の杖を飛ばして、仙人のように天風の中からひらひらと大海原の真中に舞い下りてきます。」(山田準『陽明学講話』)

大切なことを手放すことなく、ただ、為すべきことを為し、為さねばならぬことを為す、ということでもありましょうか。
それにしても、悠然たる天地自然をわが身とともにする機会が本当に少なくなってまいりました。