我が本質を生きる

上辺の生き方に翻弄されていて、なおそのことが分からない。

外物本位に生きていて、なお、己本位と思い込んで生きている。

何かおかしいと思いながら、何がおかしいのかがわからない。

どこまで考えても分からない。

わからないというのは、どこかおかしいとの思いを拭い去れないからなのである。

それもそのはずである。知でもって考えてもわからぬのである。それが「その思い」というものなのである。

どの人間もそれに気がつくものをもっている。

それはまさに、「我」に返ろうとする力が、どの人間にも働くようにできているからなのである。

我が本質を掴み取り、掴み出し、離さないようにして、生きることである。

それこそ己を生かし、人を生かし、社会を生かし、我がいのちを生かす道である。


 今まで人間が努力してきた経営は、一に人格的根柢(こんてい)に基づく創造ではなくして、単なる「物への付加」であった。無礙(むげ)自由の絶対的世界に生まれながら、その永遠の光を遮(さえぎ)り、不尽の生命を掬(く)まず、我から「物」の殻に潜んで、空しい機械的労作を続けたとて、どれほどの意義があろう。
 自然の一震(いっしん)に繰り返されるものは、ただ徒労である。親を棄てて飛び出した不孝な子が、放浪の揚句、故郷の地を踏んで涙を流すように、人間もまた魂の故郷に帰らねばならぬ。
安岡正篤『ますらをの道』)

(ここでの「経営」とは、「社会づくり」とか「社会」と解してもよいでしょう。)

この故郷や親子の喩(たとえ)が、すでに笑うべきものにすらなっている今の世の中である。
母が子に、帰るべきところを教えられないほどの、そういう母がすでに生まれてきている社会になってきているのが、わが国の現在である。

一人ひとりがしっかりとしなけらばなりません。