しっかりとした自分になるために

しっかりとした人間になるための努力というのは、じっくりと時間をかけて取り組まなければならない。

もともと、とびきりすぐれた人間はいないのである。

一足飛びにしっかりとした人間になれるわけではない。

立ち上がったり転んだり、進んだり退いたりするのが、努力の自然のありようなのである。

昨日しっかり努力ができても、今日になると、その効果を発揮できないからといって、努力することを捨ててはいけない。

また、今日、その効果が発揮できないからといって、さも効果があったかのようにとりつくろったりしてはいけない。

そういうむりをするなら、昨日のいささかの努力まで台なしにしてしまうだろう。

これはけっして小さな過ちではない。

たとえば、道を歩いているとき、つまずいて転んだなら、立ち上がってまた歩き出せばよいのである。

人の目をあざむいて、転ばなかったふりをする必要はない。

またなにより、自分自身をあざむいて、転ばなかったふりをする必要もないのである。

世に埋もれても悩まず、世に受け入れられなくても悩むことはない。

確固とした「私」でなければならないのである。

それぞれの自身の本来のものに基づいて、粘り強く日々に努力して生きなければならない。

人に嘲笑されようと侮辱されようと、あるいは賞賛されようと、そんなことにはいっさいとらわれてはならない。

努力が進歩しようが後退しようが、そんなことは気にしないで、ひたすら自分の本来のものを生かすべく努めるのである。

長い時間をかけてそれを実践すれば、自然に効果が現われてくるし、また、外界の事物にも心を動揺させることがなくなるだろう。

着実に努力をしていくなら、人から非難されたり侮辱を受けたりしても、その一つ一つが栄養となり、自分の持って生まれたものを高める助けとなるだろう。

もしそういう努力を怠るなら、向けられる非難や侮辱などのすべては魔物となって、自分を押し倒すものになるだろう。

しっかりとした人間になるための努力というのは、じっくりと時間をかけて取り組まなければならないのである。

(cf.守屋洋『新釈伝習録』)