自分を見失う

自分を見失うことは、人間、誰しもあることです。

では、何によって自分を見失うのか。

それには、いろいろあります。

たとえば、

欲によって、自分を見失う。

懼(おそ)れによって、自分を見失う。

哀(かな)しみによって、自分を見失う。

喜びによって、自分を見失う。

苦しみによって、自分を見失う。

怒りによって、自分を見失う。

愛によって、自分を見失う。

恨みによって、自分を見失う。

その理由は、もっといろいろあるかもしれません。

どういう理由であれ、自分を見失うというのは、無いほうが良いことの方が多いでしょう。

たいていの人は、人には自分を見失うことがあるということを、経験で知っています。

とは言え、こうした経験は、どの人にあっても、人生のなかで、それほどたくさんあるものではありません。どの人にもある経験であるが、数ある経験ではないということです。

しかし、見失いということで考えますと、どの人の人生にもいつも付きまとって生じるものがあります。
ともすると、それは生涯付きまとったままに終わる場合もあります。

それというのは、自分を見失う以上の、大切なものの見失いのことです。

それは、自分にある、自分のなかの、もっと大切なものの見失いです。

それは、気づかぬようで、気づいている。

気づいているようで、気づかないでいる。

そういうものです。

だから、それは、生涯ついてまわる見失いなのです。

そして、もっとも大切なものの見失いです。

本来的なるもの、時にそれは、突き動かすように自身の内に出てきます。

しかし、日ごろはぼんやりと自身を照らしています。

その照らすものを掴むよう努力せねばなりません。

掴んだなら、離さないよう努力せねばなりません。