生きることの学び

生きることの学び、生き方の学びというものは、自分がその時に必要とするものを学ぶことにあります。

ここでいうのは、言葉や話による学びのことです。

たとえ立派そうな誰かが、良いことをいっているからと言って、その人を学ぼうとするのでは、自分を生きようとするところから離れてしまいます。

まず、良いなあと思える言葉や話があったなら、それがどういう人の言葉であっても、心に留めるようにすることです。

あなたが生きるうえで、必要とするその時というのは、この言葉は良いなあと思ったその時がそうであり、その言葉はあなたが生きているその時に大事な言葉なのです。

それらの言葉のなかには、往々にして、あなたにとってはそのときだけではなく、ずっと大切な言葉になるものがあるでしょう。それでも、その言葉は、あなたにとってのその時々の大切さで、色彩を変えるに違いありません。


昔の聖賢が人を教育したやり方は、医者が患者を治療するやり方に似ていた。病気の治療というのは、病状に応じて処方を立て、患者の体力や熱のぐあいなど、症状を総合的に判断して、そのつど処方を変えていく。要するに、病気を治療するのが目的であって、初めから決まった処方などあるわけではない。もし一つの処方に固執すれば、かえって患者を殺してしまうだろう。教育のやり方も、これと同じである。・・・もしわたしの言葉を金科玉条のように守っていくなら、いつか自分を誤るばかりか、人まで誤ることになる。そんな事態になったら、わたしは償いきれない罪を犯すことになろう。(守屋洋『新釈伝習録』(序))

教える者からすれば、そうなのです。ですから、そのことを本当に知る教える者は、言葉を記録として残すこと拒んだり、慎重であったのです。

一方、さまざまな形で、残された言葉から学ぶわたしたちは、本当に学ぶということを知るならば、学ぶ側からこのことについて知っていなければなりません。

それは、そのときの「私」の琴線に触れるものこそ大事にするということです。

そして、そのためには、「「私」の琴線に触れる」という感覚の敏感さを常々に大切にしていなければなりません。

自身にとって、生きることを学ぶとはそういうことです。

そして、それは、実は外ではなく、内にある、自身にある、と思ってよいのだろうと思います。だから、自身の琴線が清らかな響きを立てるのです。