自身はどこにいるか

自分というものは、常に失われがちになるものです。

ひょっとすると、夜の眠りがあるから、失われずにすんでいるのかもしれません。

自分が失われていないからといって、では、まったく失われていないかというと、いつも、大方失われているのが、常人の常というものです。

それは、自分というものが、たいてい惑いの中にあるということです。


 世の中には、大衆にこびず、独行して大儀を唱える人がいます。こういう人は大衆から憎まれることがあります。そうかと思うと、心に恥じる行ないをしながら、世の名声を得たいため、大衆にこびる者があります。こういう人は大衆から好(よみ)されることがあります。
 世間の評判は、よほど注意しないと、それに惑わされて事の真相がわからなくなることがあります。今日のような情報化時代になりますと、雑多な情報が乱れとび、真偽のほどもわからなくなることがあり勝ちです。また、いっせいに偏向情報が発せられますと、大衆はこれに惑わされ、天下国家の行方を誤ることにもなりかねません。
 民主主義というものも、よほど各人が自覚しないと、えたいの知れない世論に、付和雷同する弊害に陥ることになります。わが目で確かめ、わが頭で考え、わが責任で判断を下すことが今日では大切であります。
(岡田武彦『東洋のアイデンティティ』)


かといって知識に偏りすぎても、判断を誤ります。
これは、やたら知識を身につけた者がよく陥るところです。
なぜなら、当然ながら、何かにつけ、知識を頼りにするからです。


「主人公!」
 「はい」
「眼を覚ましていなさいよ」
  「はい」
 「人にだまされるなよ」
    「はい」
(無門関、第十二則)