不幸・幸に縛られて生きる

人間のことは複雑なもので、始終人間は幸福を追求して止まない。世界を挙げて如何にして人間が幸福になれるかということを追求している。ところが何が幸福かがよくわかっていない。分かれば分かるほど分からぬものです。禍かと思えばそこに福が倚っている。禍の中に福が含まれている。福かと思ったら、その中に禍がかくれている、たれがその極致を知っていましょうか。その極致になると到底人間の予測など許されない。限りなく複雑なものである・・・(安岡正篤『東洋学発掘』)

人生の禍福など分からぬものです。
不幸だ不幸だとばかり思っていると、そこに福があることにも気がつかない。
幸運が舞い込んだなどと喜んでいると、そこに大きな不幸が忍び込んでいることに気がつかない。

気づかぬのは、なぜか。
そこには、いずれにも共通するところがあります。
いずれの状態も、私情私欲に飲み込まれているということです。
自分(心)が静まっていないということです。
普段はどうということもないのですが、禍が大きければ大きいほど、幸が大きければ大きいほど、人は誰しもそのような状況に陥りやすいのです。心が静まらなくなるのです。
そこに、ある面しか見えなくなるということが起こってしまうのです。

しかし、もう少し本当のところをいえば、幸だの不幸だのと考えるのは小さなものの見方に過ぎない、ととなります。
では、どのくらい大きな視野に立てばよいか。
これは、考えてみてください。
そして、自分なりに、その答が出れば、その答を必ずぞんざいにしないことが大切です。

その答を大切にするにはどうするか。これも自身で答を出してください。
そして次には、それを実行することです。

自身が、幸や不幸に縛られて生きることのないようにしたいものです。